「フォリアドゥ」をどう訳そうかな。
共同幻想と訳してもいいかもね。
二人の中で成立する共同幻想の意味らしいが、
Qアノンやらリアルジョーカーの誕生という社会的文脈を考えれば、
共同幻想と訳してもいいかもだ。
もっと的確な日本語があるといいのだが。
ネタバレなしでは語れぬ。
以下ネタバレ全開で。
(追記)僕は「ジョーカー: 二人の見た山」
と内容に合わせて訳す。
この訳程度の実力がなぜ配給会社にない?
まさかのバッドエンドかー。
ジョーカーというキャラクターの性質上、
何人もいて、
彼は初代ジョーカーに過ぎず、
2代目3代目ジョーカーはどんどん現れるかも知れない。
いずれにせよ、
ショーは終わった、
幻想は終わりだ、
映画なんて見てる場合じゃねえだろ、
なんてメッセージが込められていると思う。
ラストに流れる二曲は、
どちらも希望を歌う歌であるが、
それも全部幻想だぜ、
「二人で見る幻想」がタイトルなのだから、
二曲ペアでテーマなのだろう。
最後に面会に来たのが誰かでテーマが決まるのかなーと構えていたが、
まさかの横槍か。
トランプを殺す奴もこのようにして現れるのかもね。
人生はいつも途中で終わる。
その感じがよく出ていた。
アメリカの病み方は結構ひどいな。
日本も似たようなものだけど、
アメリカは銃があるぶんやべえ。
ずっと昔のアメリカ、昔の音楽、
みたいな世界を扱ってるのが気になっていた。
この2024年にやるべき世界かなーと。
でも、
あの時夢を見られていた我々は幸せよね、
という懐古なのかもしれない。
アメリカの覇権の時代は終わったのだな。
Aストーリーは前作の裁判、
Bストーリーはアーサーとリーの虚実入り混じったラブストーリーミュージカル。
表面上は、
「ジョーカーは死んだ。
お前ら真似するなよ、こういう悲惨で終わるんだ。
悲惨で生まれてそれを盾にして無敵の人になっても、
結局いいことないぞ」
と言っているように見える。
だが、
「『この』ジョーカーは死んだ」
しか言ってなくて、
「次のジョーカーはお前か?」
と問うて終わったように見えるな。
死体とはいえカメラ目線は、第四の壁を越境している。
それはエヴァにおけるカメラ目線と同じ意味よね。
ショウという虚実。
メディアという虚実。
映画という、音楽という虚実。
もしこの物語に続きがあるとしたら、
映画館という媒体でないところかもしれないなー、
と感じた。
ネトフリとか、舞台とか、ストリート演劇とか。
ホアキンフェニックスは、
当たり役を得た。
だけど同時に、
今後どんな役をやっても、
何考えてるかわからなくて突然笑い出すんじゃないか、
って見えちゃうだろうねえ。
久しぶりにこの世界と繋がってる感覚の映画を見たが、
この世はかなり暗黒らしいなあ。
この感覚は「チ。」とも近いよね。
暗いヒロイズムだ。
さて、どのようにこの映画を評価すればいいのやら。
ヒットしないことだけは確実だが、
それが逆に「光の戦士」に使命感を与えて、
勇気づけてしまうかも知れないよ。
2024年10月20日
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