オリジナル最終回を見た。
YouTubeで今なら無料で見れる。
https://m.youtube.com/watch?v=AKFwVy1dj9E
この物語がなぜフィリピンで58%もの視聴率を叩き出し、
最終回だけオンエアが封印され、
そしてマルコス政権が倒れるきっかけとなったのか、
まあ見ればあきらか。
ボルテスVの敵はボアザン星人である。
ボアザン星人はある日突然地球を侵略してきたのだが、
楽勝と思われた地球侵略に思わぬ強敵がいた。
ボルテスVである。
地球にはないはずの技術で作られた、
変形合体超電磁ロボ。
ボアザン星人は毎度毎度このロボに苦戦する。
実はこの技術はボアザン星人の技術であった。
主人公たちが探し求める父はボアザン星にいて、
囚われの身となっていた。
ボルテスVは父がボアザン星の技術で作ったものだったのだ。
ボアザン星人は、
角を持った者と持たない者が生まれる星だ。
角を持った者が貴族になり、
持たない者は奴隷となる。
地球侵攻したのは貴族であり、
奴隷は解放を求めている。
ここに、父が属するゲリラとボルテスVの結託があり、
貴族の住む城を落としに行く、
というのが最終回までの流れ。
フィリピンではマルコス政権が独裁体制を取っていた。
角を持つボアザン星人のような貴族たちが、
平民を支配していたのだ。
ボルテスVの状況はフィリピンの事情とそっくりで、
貴族の圧政を平民たちが倒す、
フランス革命のような状況を皆が期待した。
(だからレミゼラブルやラ・セーヌの星でも、
同じくマルコス政権は倒れたかも知れない)
何故か日本のテレビアニメが大人気で、
最終回、貴族の城が崩壊することを知ったマルコス政権は、
最終回のオンエアを中止させた。
そしたら猛反発があったわけ。
これで暴動が起きてマルコス政権が倒れたわけではないが、
最終回が見れなかった恨みは、
マルコス政権への不信の下火になったのは事実だ。
マルコス政権が倒れたあと最終回が無事放映され、
皆は貴族政権の崩壊に祝杯をあげたろう。
今でもフィリピン軍の軍歌はボルテスVの主題歌だ。
たとえ嵐が吹こうとも、漕ぎ出そう闘いの海へ
手と手を取り合う仲間がいる、
地球の夜明けはもう近い、
という軍歌を、皆は魂の底に刻んでいるのだ。
ボルテスVがフィリピンで90話で作られるときいて、
その国家事業的使命感に、
僕は心が震えた。
漏れ出てくる映像を見て、
「そこまで原作に寄せるのかよ」と感心した。
彼らにしてみれば、
聖典の改変などあり得ないくらいの意識だと思う。
何のための実写化か。
実写化は、感謝の祈りだ。
魂を受け継ぎ、流布していこうという宗教的行為だ。
だから、
70年代当時の甘いドラマツルギーだとしても、
「そのままやる」ことが、
フィリピン人としての誇りなのかも知れない。
それくらい本気の今回の実写化だ。
まあ、ただし、前のめりすぎて、
「ボルテスVを知らない人用にどうつくる?」
という視点が抜け過ぎていたことは否めない。
そこも含めて宗教行為だなー、
などと思ってしまう。
主題歌を歌う堀江美都子は、
フィリピンでは国賓扱いという。
そりゃそうだよな。
実写化するとはなにか?
なぜ実写化するのか?
僕は、原作より広範囲への流布だと思う。
これは良いから見なよという。
原作そのままの形だと食べにくいから、
見やすい実写にして、
より広範囲に流布できる映画にしたよ、
というのが、
正しい実写映画化だと思う。
そのときに、「食べやすい形にする」
が原作改変の理由であるべきだと思う。
風魔の実写化は大胆な改変をした。
それは、原作風魔の荒唐無稽さを現代チックに修正するのが目的ではない。
原作風魔の荒唐無稽さの魅力を活かすために、
現代との間に立ってアダプターとなったつもりだ。
実写風魔はたのしめる。
しかしその奥底にあるのは、
原作の面白さをなんとかして楽しみたい、
な、これ、面白いだろ、だからとっつきやすくしたよ、
腐女子も、V好きも、特撮好きも、深夜ドラマ好きも満足できるから来なよ、
こんな面白い世界知らねえだろ?
というつもりで作った。
もちろん知ってる人もニヤリとできるようにだ。
その、客観的視点を失うと、
聖典維持だけが目的になってしまう。
ボルテスVの実写化は、
だからフィリピンには大成功だが、
世界の他の人たちには「?」だろう。
なぜ彼らは殺し合うのか?
どこに感情移入すれば良いか?
この基本的なものをうまくやれなかった今回の「ボルテスV: レガシー」は、
失敗作だ。
初出撃で母親に抱きしめられほめられた、
サプライズ誕生パーティーでこの幸せが続けば良いのに、
その母親が特攻で息子たちを守った、
この3つのエピソードだけで、
我々はうおおおおとはならない。
もっと親子の情愛に切り込む映画はたくさん見ている。
それに比べれば、稚拙な物語だ。
だけど失敗作と切り捨てるには、
あまりにもものすごい熱量なので、
間違ってるけど楽しいぞ、
となってしまうのが問題なのよね。
もっとも間違った実写化は、
原作の流布が目的でないものである。
邪な動機に貫かれたものだ。
たとえば脚本家の才能を世に出したいとか、
芸能人の人気を出させるためのショーに改変したりとかの、
誤った改変である。
二番目に間違った実写化は、
「それを知らない人を巻き込もうとしないもの」だ。
帰依しすぎていて、周りが見えていない。
最近多くの旧J系のビジネスが、
知ってる人だけを囲み始めているのがとても気になる。
知らない人は知らなくていい、
と拒否するのは、広いメディアのやるべきことではない。
正しい実写化は、
帰依して、かつ流布のために食べやすくすることだ。
たまたまこの二日、
ボルテスとジョーカー2を見たけれど、
二番目に間違った実写化と、
あまりにも正しすぎて、
原作の本質、狂ったドロドロとしたものを、
ミュージカルコーティングしたジョーカーと、
たてつづけだったので調子が悪くなりそう。
2024年10月21日
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