2024年10月21日

【薙刀式】創作文とコピー打鍵の違い

最近ランダムコピー打鍵をやりまくってることもあり、
なんだか少しコツがわかってきた。

わかればわかるほど、
これは創作文と関係のないジャンルだな、
という理解が深まる。


Twitterから。
> そう言えば親指シフトキーボードは良かった。 漢字仮名まじりの文章を多量に入力する商売の人にはうってつけだったのでは?

「文章を多量に入力する」
という認識の解像度が低い。

文章というのはどこかにあって、
それを入力していけば文章が完成する、
などのように思っている。
これはコピー打鍵の考え方だ。

親指シフト当時は清書という仕事もあり、
どこか別に大量にある文章を、
入力するという仕事は現実的にたくさんあったが、
今はその時代ではない。

文章をたくさん入力するのは、
自分の文章である。

そして、
大量の文章があり、それを加工して手渡す、
というのは創作文ではないと思う。


創作文というのは、
頭の中にモヤモヤがあり、
それを、手の際で端から形にしていくことだ。

あるモヤモヤを形にしたら、
次のモヤモヤがそこに繋がっていて、
糸を引いて出てくるので、
それもまた形にして、
そこに繋がるモヤモヤもまた形にして、
それがひと段落したら、
まだまだ残るモヤモヤの山を見て、
次はここから形にしようと手を動かして、
そして最後までモヤモヤをなくして、
全体を眺めて、
形としてうまく整える。

こんな感じが創作文の世界だと思う。

モヤモヤは、日本語の文章の形をしていない。
映像でも言葉でもない、
「あああああ」という感じのものだ。
だがしかしそれはなんらかの意味や意図を持っている。

書き手はそれを、
「日本語の形」に手で変換する。

それが「書く」ということだ。

「言う」こととの違いは、
言うことは言いっぱなしになって訂正できないが、
書くことは書きながら確認できることだ。

言うことは、逐次的に相手に伝わり、
相手が瞬時にリアクションするが、
書くことは、書き終えて送信するまでは、
受け手がいない。
だから書き手は、小さい範囲を確認しながら書き進められるし、
全体を俯瞰して整形し直すことができる。

この、確認しながらの作業が、
言うことと書くことの違いではないかと思う。

僕は書きながら、
「自分のモヤモヤとはこのようなことであったか」
と言葉にして確認して驚くこともままある。

つまり、モヤモヤは最初から言語化されていない。
だからこそ、手で言語化して、
言語の形で確認している、と言っても良い。


この、「言語にする作業」に、
薙刀式は便利な道具である。

面が2しかないので負荷が少ないし、
指の範囲が狭く、ほとんどが人差し指中指と親指で打てるから、
パパッと打てるし長期作業でも弱い指を保護してるし、
書き直しはすぐにできる(BSや選択して再変換)し、
清濁半小拗外同置だから、
咄嗟に打てなくても、よっこいしょで書けば済む。
それで、よく使う日本語のパーツ、
とくに繋ぎの語がアルペジオだ。

つまり僕は、
「言語化のために最も便利な道具」が欲しくて、
それが薙刀式なのだ。
薙刀式ではなくて、
「言語化装置」とでも名付けるべきだった。
キャッチーじゃないけど。


これとコピー打鍵は全く違う。
「言語化する」ことがない。
「モヤモヤがそこにある」わけでもない。

左から順次来たものを、
100%右に渡せますか、
というゲームに見える。


創作文が料理だとしたら、
コピー打鍵は運び屋だと思う。

その場でアドリブでレシピを考えて、
切って貼って煮込んで揉んで、
次々に料理を作り続ける料理人と、
倉庫でパッケージにわけられた荷物を、
正しい順で次の棚まで速く運べるのかを競う、
大量運搬作業員の、
差があるように思う。

肉塊をアドリブで捌く包丁と、
左から右に100%正確に並べるフォークリフトの、
違いがある。


あるいは、
オリジナルの絵を描くことと、
模写の絵を描くことくらいの、
違いがある。

模写はオリジナルの練習になることや、
オリジナルには客観的な点数をつけられないから、
競技としては模写がいいことや、
模写がうまいからといってオリジナルとは関係ないことも、
似ている気がする。


僕は「捌く道具」がほしい。
「運ぶ道具」がほしいのではない。

薙刀式は、高速に正確に大量に運ぶ道具としては、
100点に対して85点くらいじゃなかろうか。
しかし薙刀式は、
目の前にある何かを言語化する、
モヤモヤを切り分ける道具としては、
100点近くを叩き出していると思う。

qwertyは、
捌く道具としては2点ぐらいで、
運ぶ道具としても2点ぐらいだ。
だけどたまたま、
運ぶ道具として99点を叩き出せるような、
鍛え方ができる配列だった。

常時ロールオーバーしながら、
それを維持できるように最適化運指を組めれば、
そしてそれを運用できるだけの、
指10本の独立があれば、
可能な配列だと思う。

薙刀式はそこまでの高速運搬は無理だ。
そういう設計になってない。
qwertyも元々そういう設計ではないが、
たまたまそれをやれる配列で、
変態たちが開発したのだ。

現在の競技タイピングは、
だから「開発されたqwerty」という、
特殊配列による競技会だ。


なるほど、
薙刀式がそこへ行きたがらない理由は理解した。
コピー打鍵は85点止まりになるだろう。
その代わり、創作文で100点近くを叩き出すと思う。

創作文の性能を、コピー打鍵の性能で測るのは間違ってる。
フォークリフトのスペックで、
包丁を評価するようなものだ。
逆もそうだ。
posted by おおおかとしひこ at 21:52| Comment(0) | TrackBack(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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