面白いは主観だ。
しかし、自分が面白いものを他人が面白いと思うこともある。
そして、個人に強く受け入れられ、
色んな人に広く受け入れられるものをつくるのが、
マスでつくるものの使命だ。
だから、あなたの思う面白いものを、
どう面白いのか整理できる力が必要だ。
なぜなら、言語化できたら、
それは他の人が共有できるものになるかもしれないからだ。
でもたとえば、
「親子の情愛」みたいに、
抽象に還元してしまってはだめだ。
ストーリーを扱う人のやる解像度ではない。
「母が子を守るために特攻するんですよ。
そして父はいまだに捕らわれの身で、
父に一度でも会わせたくて、子を死なせるのは母の情愛が許さなかったんです」
なんて風に解説するとよい。
これは「ボルテスV」の中核になる部分だけど、
「親子の情愛」だけでは伝わらない、
ストーリーの良さが具体だと伝わりやすい。
そして、単なる具体じゃなくて、
そこに込められた思いとかがうまく乗っかるとわかりやすくなる。
(この解説はプリクエル部分を足した場合のもので、
公開版ではここまで情愛にフォーカスしていない)
もちろん「ボルテスV:レガシー」には、
「ものすごいCGによる、原作完全再現の現代アップデート」
という燃える要素があるのだが、
もし人間ドラマでこれを加えれば、
「なぜおもしろいのか」が分かりやすくなると思う。
つまり、面白さは一つに還元しなくてよい。
最も強いものは大事だけど、
それだけで2時間のものが持つはずがない。
2時間CGロボットバトルのみの映画はあり得ないだろう。
映画というのは、複数の面白さの重ね合わせで、
ようやく一つのものとして立つと思う。
「面白さ」を表現するもので、
もっともシンプルで短いものはギャグだろうか。
それがなぜ面白いのか、リズムなのか、変顔なのか、
それが出てくる文脈なのか、
色々あるだろうが、
少なくとも一つの面白さとして解説可能だろう。
そしてそれがうまければ、
本体を見なくても、他人に伝えることが可能だ。
この、「本体を見なくても伝えられる」ということが重要で、
ネタバレをしたとしても伝えられるか、
ということが特に重要だ。
そうすると、
「見ていない人にも伝わる」ので、
伝播することが可能になるわけ。
もちろん、衝撃的などんでん返しなど、
知ってないことが前提の面白さは伏せるべきだけど、
それを知ってても楽しめるものに関しては、
どんどんネタバレしていってもよいと僕は思っている。
だから、
その面白さをどう伝えることができるのか、
言葉を尽くして、そして整理したほうがいいと思っている。
これは、企画書を書くときに参考になるし、
キャッチコピーを書くときにも参考になるし、
そもそも全体像を把握するときにも参考になる。
「なにがおもしろいの?」
と問うことは、
これが一体何か、を正確にとらえようとする行為だ。
僕はよくこれを他人に聞く。
うまく分析できる人は結構少ない。
「なにがおもろいねん」というのは、
「おもろないわ」という反語ではなく、
単純な質問である。
それを、「僕はおもしろいと思ったから」では、
コミュニケーションにならない。
おもしろいと思うなら、
言葉で伝えられる形で、
しかも唯一ではなく複数が重なり合う形で、
整理できるとよい。
そうしたときに、
初めて、見ていない人にも伝播することができる。
見ていない人は見ない、ではマスの大衆芸術としては、
よろしくない。
見てない人も巻き込めるような、
「面白さ」を提出できないと、
見ない人は見ない。
そういう面白さか、と理解したら、見なくなるのでは、
と心配する必要がない。
よっぽどよくある面白さ以外なら、
見てみたくなるのが人間の心理というものだ。
というわけで、何が面白いのかは、
どんどん語ったほうが良い。
あの場面が良かった、この場面が良かった、
というのは勝手な感想や印象だが、
その場面のそれがなぜ良いのか、
を言葉にすることは、
他人に伝える伝播力になる。
自分の作品を客観的にとらえるときに、
他人の作品を客観的にとらえるときに、
「何がどう面白いのか」を、
言葉にして解説することは重要だ。
あなたは映画評論家になる必要はないが、
他人の作品も自分の作品も、
正しく面白さを捉えられる必要がある。
映画ノートをつけるように、
自分の作品の感想批評ノートをつくってもいいくらいだ。
(あんまりやりすぎると鋭すぎる指摘をしてしまい、
落ち込むんだけどね)
何年も前の自分のそれを見て、
その時は酔ってたなあ、と反省することも重要だね。
2024年10月24日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック