Twitterで、#いらすとやチャレンジ
が流行っている。
いらすとやの簡潔なイラストを、
解像度高く描き直そうという趣向の遊びだ。
絵師の腕の見せ所なんだけど、
僕はどれもいらすとやの方がいいじゃん、
と思ってしまう。
解像度の低い絵は、劣悪なのだろうか?
僕はそうは思わない。
日本にはシンプル化する文化がある。
大体は禅の時代のものなんだけど、
ジョブスがそれを学んで、
Macのデザインに取り込んだのは有名だ。
シンプルイズベストな、
削ぎ落とした魅力は、
解像度が低いからダメというものの、
真逆の考え方だ。
いらすとやのイラストの数々は、
おもしろい状況をなるべくシンプルな絵にして、
カリカチュアしている。
あるいは、概念化している、
といっても過言ではない。
言葉にしづらいこうした状況を、
アイコン化している、
といっても過言ではない。
これを高解像度に戻しても、
その本質以上の情報は増えないので、
間延びした絵を見せられている気がするんだよね。
せっかくうまいことコンパクトにまとまったものを、
ただ広げただけの、
何もない絵に見えてしまう。
だけど内容を足すといらすとやの内容を曲げることになるので、
ただうまい絵のコンテストになってしまって、
いらすとやの株だけが上がっている、
という結果になってしまっている。
これは、
解像度の異なるものを、どう扱うかということだ。
テレビはHDになって面白くなくなった。
漫画も絵が上手くなりすぎて、
内容に注がれるべき力が削がれてるように思う。
アニメもゲームも同じくだ。
世界がネットで繋がって、
便利にはなったけど面白さは減ったように思う。
演劇くらいかな、昔の解像度でやれてるのは。
低解像度には、低解像度のおもしろさがある。
意味を抽象化できるので、
無茶苦茶な組み合わせが可能だ。
「ガラスの仮面」なんかを見てると、
今の世界の解像度が高い漫画よりも、
よほど荒々しくていまだに面白い。
言語として荒いアメリカ英語のほうが、
繊細な日本語よりも強く、速く、本質をぶったぎれる、
ということに近いと思う。
日本語の作法や礼儀を全部守っていると、
日本語は何が言いたいかわからなくなる。
高解像度になることがいいことではない、
と僕は思う。
だけど高解像度になってしまった世界は、
元に戻ることはない。
だから、意図的に解像度を使い分けるべき時代に、
なるんじゃないか。
昔のレトロが若者に受け入れられている。
写ルンですの低解像度写真や、
VHS4:3の画面や、
初期デジカメの写真や、
カセットの音質が、
エモい扱いされている。
その解像度で、若者たちは世界を見たことがない。
高解像度で世界を見てると、
コンプライアンスとか多様性とか、
論理的破綻とかパクリ疑惑とか、
フェイクか真実かなど、
色んなことに気を遣わなければならなくなる。
昨今はAIかどうかなんてファクターも増えた。
そんなときに「こまけえことはいいんだよ」
とぶっ込む荒々しさは、魅力があると思うんだよなあ。
(それが映画的にバランスの取れてるのがインド映画だ)
解像度を上げて幸福になった例はあるのかな。
上げた解像度にふさわしい内容って逆に難しいのでは?
相対的に内容が下がるんなら、
解像度を上げる必要はあったのかな?
作画コストだけが上がってるのではないか。
2024年10月23日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック