2024年10月28日

なぜ1が受け、2は酷評されたか(「ジョーカー フォリアドゥ」評3)

言語化しづらくてしばらく考えていた。
1が受けた理由を考えれば紐解けるかな。

以下ネタバレで。


1が受けた理由は、
弱者男性に夢を見させたこと、
だろうかね。

女性権利の解放運動によって、
「弱い女性に権利を」が言いやすくなった。
「強い男性」という男性一般はなくなり、
強い男性と弱い男性にわかれてしまった。


特に日本では、
就職氷河期以降、
正社員か派遣かに二極化されて、
多くの派遣弱者男性がうまれた。
さらにいうと、日本の場合、
そこから這い上がる手段はかなり少ない。
(派遣先で気に入られて、ウチの社員になるか、
以外にないんじゃないか。
中途採用枠はよほどの経験者しか採らないし)

フェミニズムは、
弱者男性を救わない。
資本主義は弱者を救わない。

弱者は切り捨てられる。
ここを救うのは宗教のみだ。


ジョーカー1は、ここに刺さった。
無敵の人になれば無敵になれると。

主人公アーサーの境遇がひどすぎる。
そしてそれは、結構あり得るリアルだ。
母親が毎日郵便受けを見て、
「まだ富豪が迎えに来ない」と思ってるのが、
ものすごく辛かった。
男ってさ、母親のことは辛いよな。

そんな無敵の人が無敵になる。
女を口説けず、
仕事はうまくいかず、
母を殺し、女を殺し。
TVでヒーローだ。
暴動が起これば、
「このクソみたいな世界がひっくり返るのでは?」
という希望が沸く。
中心はジョーカー。
仮面を被れば誰もがジョーカーになれる。

だから受けた。
ジョーカーは希望、暗い希望として、
受けた。

現実にもジョーカーは出た。
京アニを焼いた青葉、
安倍を暗殺した山上は、やり遂げたジョーカー。
電車に乗ってたジョーカーは焼いたんだっけ。
他に何もない、あとがない「無敵の人」は、
たくさん模倣犯をしかねない。

もちろんジョーカー本人に罪があるが、
もっと問題は、
弱者男性に這い上がるチャンスがないことだ。
この行き詰まりのガス抜きに、
ジョーカーが機能した。


だから、2に期待されたことは、
「その後のテロの続き」である。

母親を捨てた富豪に突撃して、
高価なものを人々に配る義賊的な復讐や、
上級国民を襲い、恨みを晴らすことや、
徒党を組み火をつけ暴動を起こすことだ。


つまり、ジョーカーを産むもの=この社会の破壊が、
ジョーカーの目的であり、
誕生したジョーカーは、
この行為をなせるのか?が、
彼の人生のセンタークエスチョンだ。

だが2は、それを真っ向から否定した。

ジョーカーは捕まり、
刑務所の中から出ることはない。
グルーピーのリーが追いかけてくる以外、
希望がない。
陰鬱な世界に咲いた一つの恋の物語だ。
そしてバッドエンドだ。
恋は終わり、モブに殺されておしまい。

何も希望がない。
この希望のなさこそがテーマだ。

弱者男性だろうがなんだろうが、
罪を犯した者は罰せられる、
という信賞必罰が実行されただけだ。


ジョーカーはいるのか
(二重人格であり、アーサーは責任能力がない)、
ジョーカーはいないのか
(二重人格ではなく、アーサーが犯罪を犯したのか)、
というレトリックで、
アーサーは自分の責任である、
と罪を認めた。

「ジョーカーはいない」と、
彼は自分の人生で、初めて?責任を取った。

それは彼が見せた最も男らしい瞬間なのだが、
そこにリーが絶望して去ってゆく、
というのが絶妙にうまかった。


弱者男性よ、
リー(ろくでもない適当な女)には理解されないぞ、
そして誤解されて刺されるぞ、
だが俺たちは男として責任を取る姿だけは、
正しいと思うぞ、
という、エールだと僕は思った。

ただ犯罪は裁かれるから、
無敵の人にはなるなよ、という警告でもあった。


ジョーカーはいない。
このことだけで、
ジョーカー1の続編、拡大を期待した人を裏切り、
真っ当な世界へ接続させたことは、
すごい偉業だなと思う。

ジョーカー1の信奉者は、
劇中のリーであり、裁判所を囲んだフォロワーだ。
その失望こそが、
ジョーカー2が酷評される原因だ。

つまりジョーカー2を酷評する人は、
弱者男性だと告白しているに等しい。


深く考えれば、
弱者男性だとしても、
犯罪を犯さず、男として責任を取れば、
男として生きられる、
というテーマを描いているのに、
それは届いていない。

なぜなら、破壊して暴動を起こすほうが簡単で、
そんな抽象的なことは難しいからだ。

ミュージカル必要?なんて論調もある。
暗さをシュガーコーティングしてるから必要、
という分析も悪くないが、
この歌の部分は、
「酔ってる所」と考えるべきだと思うんだよね。

現実が辛過ぎるから、
エンターテイメントの美しい世界に酔い、
いっとき忘れようとしてる、
そんなときにミュージカルシーンになる。

つまりこれは、
映画そのものの否定でもあるんだよね。
古い世界と古き良き映画をもってきたのは、
それを否定するためだと思う。

僕がアメリカ病んでんなあと思ったのは、
その否定はいいんだけど、
じゃあ肯定するべきそれに変わる価値観があるのか?
ということ。

つまり、この映画全体が、
価値観を否定するジョーカーなんだなあ、
とは思ったわけ。

で、その人が殺されて、
その真の物語は誰にも語られることなく、
次のジョーカーに形だけ継がれる、というどうしようもなさ、
やるせなさ、
お前はジョーカーか?という問いかけ
(こんな所で映画なんか見てなくて、
現実と戦ったらどうだ)が、
ジョーカー2のテーマだと僕は受け取った。

だから、ジョーカーというタイトルのくせに、
ジョーカーの本質をわかった人はジョーカーにならない、
しかし本質を受け取れない人がジョーカーになる、
という本質を描きすぎて、複雑な結論になってるのよ。


だから、
ジョーカー1で期待して、
ジョーカー2を酷評する人って、
「わかってない弱者男性」ってことになって、
それが次のジョーカー候補だったから、
その人たちを失望させた、
という、効果的な選択的ゴキブリホイホイになってるぞ、
と俯瞰して考えられるわけさ。


アナーキズムという無政府主義は、
その後の秩序をつくらず、ただカオスに持ち込むパワーだ。
ロックは反抗するが、
反抗した後のことまで責任を取らない。

そんなことをジョーカー2は描いていた。


ただ、法廷劇+ミュージカルが、
最適解だったのかはわからない。

単純に脱獄して、リーとともに悪党を組み、
破壊の数々をこなし、
悪いことをして、
ジョークは受けず、
そして最後にバットマンとすれ違う話で、
なぜダメだったのかは、
全然わからない。

いや、もし3があるとして、
この話が第二のジョーカーによってなされるなら、
アーサーでないジョーカーの、
正体の知れないジョーカーの本質が、
描かれるのかも知れない。

あるいはその第二のジョーカーも、
途中で第三、第四のジョーカーに入れ替えられて、
ジョーカーというカオスの魂が移動するだけ、
みたいなことのほうが、ジョーカーの本質を示すのかも知れない。
ハーレイクイーンも、今回のリーではなく、
次々にグルーピーが入れ替わるだけとかね。

僕が3を作るとしたら、
そんな話にするだろう。

ただ、興行的失敗によって、
3を作るチャンスはないかも知れないが。



まあとにかく、1も2も異様な映画だったことは確実だ。
僕はアカデミー作品賞並みだと思うが、
人々はこれに賞を与えることはしないだろう。
posted by おおおかとしひこ at 12:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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