2024年11月03日

【薙刀式】言葉は100%正確に表現できない

という前提は表現者ならば誰もが自覚するところだが、
配列作者や使用者に、この前提は共有されてるのかな。

言葉とはなにかという話をしてみる。


アプリオリに考えると、
思考があり、
それを言葉で表現する。

しかし言葉というのは不完全で、
思考を100%正確に表現できない。

70でええやろ、というのが妥協。
80、90…になるように直すのが推敲。

みな、言葉が下手なことに悩む。
最初から90が出ないのは、自分の言葉が下手だからだ。
あるいは書くのが遅く、
途中で蒸発してしまうから70止まりなのだ、
と悩む。

ここが幻想である。

書き方を練習すれば、
70が80、90になり、いつか100になる。
書くのが猛烈に早くなれば、100を書き留めることができる。

「あー、言葉が出なくてもどかしい!」
という状態は、
頭がよくなり、書き方がうまくなれば100になる。

100を100で出力できるのが文才がある人。
自分は文才がないから70。

これらはすべて誤りである。


言葉は原理的に不完全だ。
あることを表すのに複数のやり方がある。
複数の言葉もある。
それらがどのように厳密に異なるかは説明できない。
グラデーションのかかったニュアンスにすぎない。

同じことを表すのに、
自分の言い方と他人の言い方が異なる。
地方やとある分野では言葉の使い方も異なる。
ある集合では言えることが、別の集合では言えない。
外国語に至ってはなおさらだ。

仕事で翻訳作業をやったことのある人は、
「これ、だいぶニュアンスおちてね?」と、
心配すること請け合いである。

つまり、
言いたいことと、言葉で表せることは、
一対一ではない。
数学のように厳密性がなく、
常に、
言いたいこと>言葉で表せること、
だ。
=になる日は来ない、
と僕は考える。
理由は上の言葉の不完全性による。


じゃあ人々はどうやってコミュニケーションをとってる?
「大体の意図を汲む」によってだ。
字義通りの解釈をせず、
言いたいことはこうだろう、
と「推察」することによって、
概ねのコミュニケーションを取っている。

言葉が間違ってようが、
言いたいことはこうだな、と解釈する力がある。

そしてその推察や解釈は、100%ではない。

だから僕らは、100と100をキャッチボールをしてるのではなく、
もともと70同士くらいをやり取りしている。

気持ち悪いよね。残りの30はどこに行くんだい?

仲の良い人、フィーリングの合う人、
長年連れ添って以心伝心する人は、
70が80や90に達しているかもだ。

だけどそれは身内という範囲だ。
身外には通じない。

そもそも言葉は身内の発生によって歪む。
ローカルとはそのようなことで、
バベルの塔の悲劇は、
つまりは身内の発生、言葉の不完全性によって、
言語がわかれていったのだ。


さて、表現である。

100の言いたいことを、70、80、90…の表現にしていくことが、
表現であろうか?

それは表現として誠実な表現だ。

実は表現者というのは、不誠実な表現を使う。

表現されたものXに対して、
AともBともCとも解釈できるようなものをわざとやることがある。
このことによって、
Xはその表現自身より大きく見える。
これを「深い」などということがある。

Xの表現が持っている情報量よりも、
大きな情報量を含ませることができる。

さて、100のことに近づける誠実な表現と、
とくに100あるわけではないのだが、
100の表現をすることで、
120にもら150にも見せる、不誠実な表現がある。

なにも芸術で不誠実表現が連発されるわけではない。
「夜道に気をつけな」の脅しは、
存在しない恐怖に怯えさせるための古典的手法で、
特に夜道で襲う計画をしなくても、
勝手に怯えてくれるわけなので、
表現Xよりも大きな情報量を持つ。

その差分は、受け手の想像力による補完、
ないし連想である。


このことは、およそ表現者ならばわかっていることだ。
誠実な表現、不誠実な表現をどう使い分けるかが、
表現者の腕というものだ。

(極端な例は高田純次で、彼は不誠実な表現しか発言しない。
楽しいんだけど、彼の真実はまるでわからない、
ケムに撒かれたような気持ちになる。
彼は芸としてそれをやる芸人である)



さて。

言葉のタイピングに話を収束させよう。

このことを分かっていると、

「言いたいことが文章の形として出てきて、
それを逐次言葉にしていくのがタイピングである」

という無前提の直感は、
あまりにも表現を知らない、
言葉の素人のモデルであることがわかる。

そんな素直すぎるモデルで、
言葉による表現の何を分かってるというのだろう。


そもそも自分の言いたいことは言葉にならない。
なんとかして言葉に直しては、
また違うと書き換える。
改めて客観的に見て、また違うと修正する。
そして100%伝わらないことを覚悟した上で、
不誠実な表現を取り込み、
想像に任せる表現も取り込んだ上で、
意図を想像してもらいやすくする。

これが言葉による表現である。

この、試行錯誤、行ってこいは、
言葉に必ず必要な工程だ。


ある文章を、なるべくミスなく書き写すのは、
表現から見て、あまりにも違うことをやっている。

そもそも競技タイピングは、
清書秘書を機械がわりに使っていた名残だ。
kpmはエンジンのrpmと同じ単位に過ぎない。

言葉による表現を競うことは、
内容の豊かさを競うことであり、
機械の優秀さを競うことではない。


たまたま、エンジニアリング的な発想が、
論理配列およびキーマップには適用できるため、
このことで配列の議論が発達した。

だけどその先の、
言葉を用いて表現することに対して、
あまりにも初心者モデルが幅を効かせたままなのは、
ほんとに君ら文章書いてんのかレベルだ。


言葉を用いて表現するからには、
工程がたくさんある。
思考を言葉としてとりあえず外に出すのは、
「書く」ことの3割程度だ。
残り7割は書き直し行為である。

昔の作家が、紙をくしゃくしゃにして丸めていたのは、
この書き直し行為をしていたわけだ。
鉛筆と消しゴムがこれに変わり、
BSやコピペがこれに変わったとしても、
それをやる行為の意味や量は変わらないのだ。

それを全部やるのがキーボード(とマウス)だ。

ほんとにみんなそこまで考えてんのかなあ。


メーカーは考えてない。
自作キーボード設計者もそんなに考えてない。
配列作者もそんなに考えてない。

それはたぶん、書くことをそんなに真剣に考えてないからだろう。

僕ら書くことをたくさんしている者だけが、
現行の考えてなさに文句を言い、
改良し続けているのだろう。





ということで、
薙刀式はv16にカナ配置は決まったと思う。
v15から「め」「み」を入れ替えて、
ヴァ行をファ行の濁音としたもの
(ヴは濁音ファ行ウ段として3キー同時)、
というかなり微改造版だ。

だけど編集モードはこれでよいのか?
について大変革をするかも知れない。

現行2面を3面に増やしたり、
縦書き横書き共通版をつくろうとしたり、
HJKLカーソルを試したり、
色々やっている。


言葉はどう書けばいいのか?
僕は、
まずバーっと吐き出して、
それから整えていくべきだと考えている。

岡本太郎は「誤解の満艦色であれ」といった。
表現は誤解も含んで表現であると。
100%理解されないことを覚悟した、
いい考え方だ。


薙刀式はそのための道具でありたいので、
せっかくv16発表しようかなと思ってたのに、
HJKLカーソルを試し始めています…
posted by おおおかとしひこ at 09:26| Comment(0) | TrackBack(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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