僕はタイピングが好きじゃない。
好きじゃないから、手を抜いて楽をするために薙刀式をつくった。
qwertyの手を抜くためにカタナ式をつくり、
カタナ式の手を抜くために薙刀式をつくった。
その手を抜いた結果、ATC 188を出し、
普段は1500字(変換後)/10分で何かを書いている。
タイパーたちは自分の速度を得るために、
途方もない努力をする。
一日10万打鍵だってさ。
そんなの絶対嫌だ。
その手を抜くための薙刀式だ。
新下駄も飛鳥も僕にはしんどかったので、
もっと楽な薙刀式をつくったのだ。
つまり僕は手抜き王になりたい。
タイピングで出来るだけ手を抜きたい。
濁音と清音は同じ位置で良い。
新しく運指を覚え直したくない。
拗音も同じ位置で良い。
別位置なんて、たとえ規則的でも覚える気がしない。
逐次シフトは手が忙しい。
連続シフトで手を抜くのだ。
小指も薬指も動かないから楽するぞ。
人差し指と中指と親指なら働けるか。
BSのために手が出張するのはめんどうだ。
右手人差し指でスッと押したい。
僕は文章を書きたいのだ。
その間にあることは全て手を抜きたい。
思ったことが字として定着すればよいのだが、
まだ思考入力はできてないのでタイピングするしかない。
(手書き+タイピングでもよい)
タイピングで凝ったことはしたくない。
なるべく手を抜きたいし、間の段取りを減らしたい。
フレーズ単位でまとまって繋がれば、
どんどん次へ繋げられる。
これも合理的な手抜きだ。
運指最適化?
そんな場合わけの努力はしないよ。
手を抜きたいことと真逆じゃないか。
標準運指のまま無思考でやりたい。
なるべく脱力して、
なるべく力を込めず、
なるべくスッとやっただけで結果を出したい。
タイパーの努力を全否定できたら最高だ。
その努力は積み上げる必要がなかったのだ、
と手抜きの結果を出したい。
努力する、結果を出す。これはすばらしい。
しかしそれを一切せず、同じだけの結果が出れば、
さらにすばらしい。
今の所、タイパーの6割程度の結果は出している。
これだけ手を抜けてこれなら、
上等だと思う。
カナ配列を使うのに、
努力してマスターしなきゃならない、
と思ってる人がいるなら、
手を抜くための配列を使ってないからでは?
と思ってしまう。
優秀な配列は、手を抜きやすいようにつくってある。
楽できるから文が進みやすいようになっている。
もしその配列で文字が進まないなら、
手抜きを促す配列ではないか、
あなたにあってない手の抜き方なのかもしれない。
薙刀式のマニュアルどおりにやれば、
どんどん手の抜き方がマスターできるから、
楽しくなってくると思う。
だってこんな楽してこんなに書けるんだぜ。
僕は薙刀式のマスターに、
努力とか工夫とかいらないと思う。
楽してるうちにそれがショートカットになった、
というのが正解に思える。
毎日部活やって甲子園出る人はすごいよな。
でも僕はほとんど練習に出ずに、
県大会でそこそこやるぜ。
タイピングの修行?
必要性ある?
文章の修行はいくらでもしたいが、
そこはスルーでいいでしょ。
苦手指練習、苦手ワード練習、
悪運指克服、空間把握、左右対称に鍛える、
標準運指を崩す最適化の工夫、
前後によって最適化を動的に変えること、
配列上での(日本語では不自然な)打鍵塊でのチャンク化。
ノーミス練習、ミス制限練習。
そんなタイピングの修行を全部飛ばして、
僕は文章を書きたい。
そのための薙刀式だ。
僕はqwertyは不自然だと思う。
その不自然に人間を合わせるのは不自然だと思う。
一方言語は、人間の自然、生理から生まれた。
それを自然に書ける道具が、
一番自然だと考えている。
それが薙刀式であるつもりだ。
薙刀の名が物騒なら自然式といいたいくらいだが、
なんだかスピリチュアル的な怪しさなので、
中二的怪しさの方がましでしょ。
カナ配列だから難しそう、というのは、
「努力しなければならない」という先入観に支配されている。
タイピングどれだけ手を抜けるかコンテスト、
優勝候補だと思っている。
2024年11月11日
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