2025年02月14日

凝縮とは煮詰めることではない、捨てることだ

料理の煮物のようなイメージ。
煮込んだり酒の熟成のように、
体積は減るが、色んなものが混ぜ合わさり、
よりよくなっているようなイメージ。

これは脚本にはマイナスだと僕は思っている。
凝縮したかったら、捨てることだ。


凝縮しようとすると、
ダブルミーニングとかを使ってしまう。
省略形とか。

そうすることによって体積をへらして、
二重三重の意味を増やすことで、
凝縮していったかのような錯覚を起こすことがある。


二重三重のミーニングは、
それを読み取れない人にとっては、
単なる暗号だ。
暗号とすら気づけない人にとっては、
単に薄い会話に過ぎない。

複層に積んだつもりの文脈は、
読取られないときもある。
その覚悟があるだろうか。
つまり、しょうもない第一層しか読解されない危険性だ。

「ええ時計してはりますなあ」と京都人が言ったら、
「時計を見ろ、はよ帰れ」の意味なのだが、
その二重の意味をわからない文化のない人は、
「そんな高い時計でもないですよ」と、
薄い会話にしか聞き取れない。
「そんな高い時計でもないですよ、
おっともうこんな時間か、長居しすぎました。
そろそろ帰りますね」と返せる人かどうかを、
京都人はニコニコしながら観察しているのだ。

つまり、京都人の煮凝りは、
ほとんどの人には通じない。「わからない」と言われるだけだ。
京都人は、同じ文化の人かどうかを見分けるためにこの凝縮を使うが、
我々はマスコミュニケーションである。
すべての人に開かれるべきだ。


一方、そぎ落とすことで凝縮が進む。
サモトラケのニケの像みたいなことだ。
首や腕がないことで、逆に想像が起こり、
本質が凝縮されるのだ。
わざと想像させるような余白をつくることで、
今ある情報量よりも(結果的に)増やすわけだ。


足すことによって、煮詰める凝縮だと、
情報量は増えるだけだ。
つまりぎゅうぎゅうになる。
単位あたりに受け取るべき量が増えて、
観客は疲れる。あたふたする。

削ることによって、情報量は減る。
しかし、本質的な情報量は増える。
豊かな空白の中に落ち着ける。
そんな感じ。

どちらが快適な空間だろうか。


俺はこれだけの情報量を、
これだけの中に畳み込めたぞ、
圧縮の達人だ、
などのように考えているとしたら、
おそらくそれはほとんど伝わっていない。

受け手というのは、
それを解読する義務がない。
解読するのが面倒なものは、
圧縮から解凍されることはほとんどない。
「なんだかわかりにくいもの」として扱われるだけだ。
つまり、理解や解凍を拒否される。

削って落としたものは、
ちょっと足りないがゆえに、
解釈してみようと心が動く。
それでなるほど、というものがあれば、
この人はうまいから信用しよう、
という心になってくる。
そのうち、以心伝心になるというわけさ。


押し付けて拒否されていないか?
やるべきことは、
そぎ落として、なんなら中心もちょっと削って、
風通しをよくすることだ。

足りないことはこわくなる。
だからこれも持って帰って、とお土産を沢山渡す人になる。
削るのが下手な人はそうならないことを考えてみよう。
足りなくて機能するのはなにか?
を考えるのだ。
posted by おおおかとしひこ at 08:42| Comment(7) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
記事の更新ありがとうございます!!

情報の畳みかけ、まさに最近の自分の制作物のことをドンピシャで書かれていて恥ずかしくなってしまいました!!
と同時に、最近の作品が上手くいっていなかったのはこのためだったのか!!と納得が行きました。

質問なのですが、100本プロットに挑戦する際、どうしてもクオリティを担保しようとリライトを数回重ねてしまい、1本書くのにとても時間がかかってしまいます。(下手だった時期はそれこそ勢いで書き上げていたのですが、目が肥えたのか粗が気になって永遠に直してしまう状況です)

低クオリティでもピリオドを打つことを目標にしてとりあえず数をこなすべきか、最低限のクオリティは保ちつつの最速で挑むべきか、どちらが良いのでしょうか?

お手隙の際にご返信頂けますととてもありがたいです!
Posted by 自称弟子のれお at 2025年02月14日 22:02
>自称弟子のれおさん

「その100本はなんのためにやるのか」を明確にするところからですかね。

「多少粗があっても、やったことないパターンを優先する」とか、
「笑えたらなんでもよし」とか、
「全部ジャンルを変える」とかなら、
低めの完成度でいいと思います。

「生涯これ一本しか作れないとして」でやると、
濃すぎて死ぬかもだけど、
完遂したら財産になるかも。

またプロットの形式にもよるでしょう。
3行×100と、ペライチ×100は苦行の量が違うので。

まずは軽めに「100というのはどれほどか」
を体感するために、
「なんでもいいから100やってみる」を、
先に完遂することを薦めます。
2周目やるときにクオリティ上げじゃないですかね。
Posted by おおおかとしひこ at 2025年02月14日 23:33
ご回答ありがとうございます!!
まずは100本を体感するところから始めてみようと思います!
頑張ります!!
Posted by 自称弟子のれお at 2025年02月14日 23:44
>自称弟子のれおさん

極真空手の荒行に百人組手というものがあります。
文字通り百人と順番に戦うんだけど、
4時間とか6時間とかかかるとてつもない修行。
今まで達成者がたった11人。
挑戦しても途中でギブアップすることがほとんどです。

その達成者のビデオどこかにないかな。
ダイジェストは見たことあるけど、
見てるこっちも意識が朦朧としてくる感じ。
100ってこんなにキツイのかー、
はそんな感じです。
Posted by おおおかとしひこ at 2025年02月15日 00:30
ちなみに、大岡監督がお仕事で企画や脚本を会議や仕事先などに出す際は、質と量と速度をどの順番で重視されますか?

作家仲間に、仕事での制作1本に時間をかけすぎだと言われたのですが、その人は6割方使い物にならないけど仕事ではとにかくコンスタントにピリオドを打って数を出す、というやり方をしていたそうです。
私の場合はある程度のクオリティ担保のためにリライトを何度も重ねてから提出、という感じです。
Posted by 自称弟子のれお at 2025年02月15日 01:03
>自称弟子のれおさん

速筆型と遅筆型がいるので、一様には比較できないと思います。
企画によってスラスラ書けるものと時間がかかるものもあります。
数稽古は、完璧でないものを数出す練習でもあります。

若い頃は企画は10枚必ず書いてこいと言われました。
企画を見る段階では、細かいのは置いといて大掴みの話をするからです。
3本目の方向でいこう、8本目のメインプロットを移植してな、
なんてのを打ち合わせでやれるためにも、
企画はそんなんでいいんだぞということです。

「あとでもっとよくなる」という自信や自負がないと、
つい完璧にしたくなるのではないでしょうか。

だから数稽古で「まあなんとでもなるな」という自信をつけるわけです。
3〜5行の三題噺プロットを100やって、
まあオチまでいけるかーという自信をつけるのもアリです。
その中で気に入った10本をペライチにして、
その中で出来の良い3本を5枚にすると、
最初の100の意味がわかってきます。
Posted by おおおかとしひこ at 2025年02月15日 08:08
なるほど……!!
ありがとうございます!
とても参考になりました!

とにもかくにも、自分はまず100本プロットを体感するぶつかり稽古からクリアしていこうと思います!

お忙しい中ご回答本当にありがとうございました!!
Posted by 自称弟子のれお at 2025年02月15日 16:30
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