2024年11月21日

谷川俊太郎は短編の名手である

と考えると少し理解できると思う。

谷川俊太郎が亡くなって、
たくさんの詩が流れてくる。
全集みたいなものを買えば読めるのだろうか。
僕の人生でほとんど読んだことがなかったので、
なんで知らなかったのか、勿体無いと思う。

「死んだ男の残したものは」
https://x.com/kusikurage/status/1858880005302088186

どうしてこんな詩が書けるのか、
それは短編の名手だから、
という視点で見たい。


短編とはつまり、
「その短さで人生を終えて良い」
ということである。

つまり、ごく短く人生をまとめてよい、
ということ。


僕らが脚本で描く中編
(2時間120枚を長編小説より短い中編としよう)
では、
もっと細かいディテールで、
その人の気持ちや決断や行動や結果をえがく。

ところが短編はそれらをまるっと削ぎ落とす。
削ぎ落として、ひとつのディテールだけで、
その人の人生を語る。


死んだ男が妻と子を残して、墓石一つ残さなかった。
いいことなのか悪いことなのか、
判断のつかない絶妙なラインをもってくる。

たったそれだけで男の人生をまとめたので、
だから、束にすることができる。

短編のいいところは、
すぐ終わるから、バラエティが揃えられることだ。

男の人生、女の人生、子の人生、兵士の人生。
色んな人生を並べられることが、
短編のおもしろいところだね。


映画だったらこの一行に収束させるため、
たくさんのディテールを費やすのだが、
短編だとこのディテールだけで終わらせる。

だからナイフのような鋭利さになる。

一人の人生に長いこと付き合わず、
その度にごく短いたくさんの人生を創作する。
短編の名手とはそういうことだ。
だから無茶できるんだな。
だから話を飛ばせるんだな。

描かれなかった部分を、ナイフのようなエッジから、
ずっと想像してしまう。

短編を書くコツは、
「何を描くかよりも、何を描かなかったかだ」
なんていうが、それがわかりやすいね。



詩人と漂泊が相性がいいのは、
たくさんの人生をたくさんの短編にするからだろう。
posted by おおおかとしひこ at 11:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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