人生をゲームのように設定することは可能だろうか。
たとえば、多くのサラリーマンはゲームだと思って、
仕事をしている節がある。
本気だと思ったら、ばかばかしくてやってられなくなる時があるからね。
その中でも、たまにいるゲームプレイヤーがいる。
上司に全面的に気を使い、仲良くなるふりをして、
なんでもいう事を聞き、しかし自分では何もできないので、
下に振り、かすめ取っていくタイプのやつだ。
彼はそれが仕事だと勘違いしていて、
それがゲームプレイヤーになることだと思っている。
だからそのゲームルールの中で、
最高のパフォーマンスを叩き出そうとする。
笑顔や仲良くなるふりがうまく、
下に振るのがうまくなっていく。
自分は中間のオイシイところに生息していく。
こういうのはコバンザメとして一番嫌われるのだが、
それをばれないように彼がプレイするため、
上司に気づかれることはまずない。
信頼されているからだ。
組織という全体ゲームの中では迷惑プレイヤーなのだが、
彼の人生というゲームの中では最適解プレイをしているわけだ。
残念ながら会社という仕組みはこのバグのような存在を自浄するシステムがない。
だからコバンザメがうろうろする会社になる。
何も生み出さなくなるサメが増えると、
その会社は右から来たものを左に受け流すだけの存在になってゆくだろう。
さて、これは人生ゲームの話だ。
「このような最適解がある」という話をしている。
こんな話を見ても詰まらないので、
我々が描くべき話は、
もっと面白い話である。
で、
ここからがようやく本題なのだが、
「その面白い話になるように、適切にルールを設定する」
が我々神の仕事なのだ。
そのゲームの中で最適なプレイをすると、
面白くなるように、
ルールを逆算して設定しておくのだ。
「壁にかかった斧」は、
そういう時に使ったりするよね。
フィクションは、しょせん架空の世界である。
現実に似ていても、異なる世界である。
だからルールをこちらで設定してよいのだ。
もちろんそれを最初のほうで提示しておかないと、
ルールを理解していないのに話が分かるわけがない。
そのルール内でバトルしたときに、
勝つ者はだれか、どう勝つのか、
敵とどう戦うのか、敵はなぜ負けるのか、
を描くのがフィクションなのだ。
そしてそれが劇的展開になるようにつくるのが、
ストーリーというものだ。
うまく書けないのは、
ルール設定が間違っているからじゃない?
ルールを序盤に提示していないからじゃない?
後付けルールが多すぎて、
シンプルなルールになっていないからじゃない?
だったら、最初から一個を提示するだけで、
単純なルールの中の話にしたほうが、
分りやすいんじゃない?
多くのルール設定の誤りは、
「ただしこういう時だけ例外がある」を増やすことだ。
それが一回ならまあ許せても、
どんどん「これも例外」「あれも例外」になると、
ルールを疑いたくなるのよね。
それで面白いと言えるのか?と。
実は観客もこのゲームに参加している、
ということを忘れてはならない。
観客もプレイヤーとして、
仮想的にゲームをしている。
「この状況で勝つなら、こうすればよいのでは?」
「この展開だと、こうなるのでは?」
などのようにだ。
その期待を裏切ったり、
ルールを急に変更したりするのは、
観客への裏切りであり、
信頼を損なうことになるよ、
ということだ。
あるルールのもとで戦っている。
現実のバチバチのコンプライアンスというルールなのか、
もうちょっと緩くてよい昭和なのか、
もっと緩い時代劇なのか、
あるいはパクリOKの韓国の話なのか、
などで、
基本ルールは変わって来る。
無法地帯のネットで、とかでも構わないわけ。
条件の提示と、首尾一貫性だね。
それが保てるように、ルールを先に決めるか、
展開を決めてから、逆算で最初に戻ってルールを決めてもよい。
やるべきことは、
「そのルール下で、おもしろそうなゲーム」を、
考え出すことだ。
たとえばデスゲームは完全にゲームとして考えている。
吸血鬼は、「血を吸われるとアウト」「日光やニンニクに弱い」
というルール下でのバトルである。
デスノートは、そういう新しいゲームを設定して攻防を楽しませる娯楽であった。
もっと複雑な条件下、人生という条件下で、
成功する話が、一番面白いだろう。
だけど、巧妙に一個だけルールを外させてくれ、
それならうまく成功をつくれる、
というのが、「嘘はひとつまで」という、
フィクションにおけるルールの暗黙の約束のようなものだね。
というわけで、
どういうプレイヤーが勝利するゲームだろう?
コバンザメが勝利するようなバグはないか?
2025年03月11日
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