2025年03月24日

責任を取ったほうが面白くなる

世の中はとかく責任逃れをする人が多い。
何かあったら自分に責任が及ばないように、
逃げれる体勢をつくりながら生きている。

そういう世界だからこそ、
責任が覆いかぶさってくるのは、
物語になる。


メールを文面として残しておくのは、
「こういうことを言いました」と、
証拠に残すためらしい。
仕事では言った言ってないという水掛け論になると、
互いの責任範囲があいまいになるから、
証拠を残すための議事録とか書面になるそうだ。
相手を信頼してない、なんか性悪説に基づいたやり方で、
僕はあまり好きじゃない。

そういういやーな感じを、
物語なら外せる。
「全部主人公がかぶさる」という展開になるからだ。


もし、巧みな作戦によって、
責任をすべて回避できる主人公がいたとしたら、
面白いだろうか?
その人は、
「失敗しなかった」だけの物語の主人公にしかなれないだろうね。
つまり、
「成功した」というハッピーエンドの物語の主人公にはなれないと思う。

成功するためには、いくつかのリスクを背負う必要がある。
そして、事実いくつかの責任を取る必要がある。
1成功するには、10の失敗をする必要があり、
ノーミス成功というのはあり得ない。
成功する人とは、
失敗しつづけたうえで、
失敗の回数より1回だけ成功を上回った人のことだ。

なので、失敗する、責任を負ってなんとかして成功に近づく、
成功するが失敗する、責任を負って……
という繰り返しが、
成功するまでの物語ということになる。

実際の人生では、
志半ばで折れる人がたくさんいるだろうが、
フィクションの中では、
主人公には感情移入するべき動機があり、
しかもご都合主義でなくてうまく進む。



現実を知れば知るほど、
難しいことをやっていることが分ると思う。
とくに失敗を恐れる社会においては、だ。

失敗を恐れて何もしない社会は、
僕らが昔読んだSFの世界に似ているとすら思う。
中央コンピューターが全部採点していて、
減点されたら下層に落とされる、
みたいなディストピア。

そういう物語では、
最下層からコンピューターを倒すアルチザンになったものだが、
21世紀はもっと高度に完成してしまったので、
そんなうまくはいかなくなった。

それらを跳ね返すには、
一種の野蛮が必要だと僕は考えている。

リスクを恐れて何もしない人は、
賢いが小物であり、
成功する人はある種のバカで鈍くて、
ネジが飛んでいないと難しいと思う。

現実の責任の取り方は重たくて個人に負えるものではないかもしれないが、
フィクションの責任の取り方は案外なんとかなるし、
「数か月後」と時間を飛ばすことも出来るので、
なんとかなるよ、という感じで進められるよね。


そして、「責任が伴う」という緊張感こそが、
物語のスパイスになるわけだ。
普通ならやらないリスクの負い方だから、
フィクションとして楽しめるという事になるわけ。


普通人は銀行強盗をやらない。
普通人は日本刀で人を斬らない。
普通人は大博打に出ない。
普通人は死ぬか生きるかの瀬戸際に立たない。
だから、おもしろいのだ。

やることやること、全部責任が発生する。
それを跳ね返す次の行動に出る。
そのチェーンリアクション、つまり連鎖が、
物語という綱渡りなのだ。

僕らは、リスクという綱渡りの妙技を見せる奇術師でもあるわけさ。
posted by おおおかとしひこ at 09:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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