2025年03月25日

言葉で説明して、そのあと動作に縮小する

第一稿は言葉で説明するところがたくさんあってもよい。
まだ完全体じゃなくて、
まずこういうものだ、と書くだけで精一杯だからだ。

それを第二稿以降で洗練させていくとよいだろう。
どういう風に? 言葉を使わないようにだ。


最良のセリフは無言である、
というのがハリウッドの格言にある。
それはつまり、言葉をいくら語ってもうざいだけで意味がないということだ。
言葉はいくらでも嘘をつけるしね。

たとえば、
「お前と俺は親友だよな」なんて言葉で確認したり、
説明するのは無粋だろう。
ほんとうに親友なら、
いつもそばにいたり、
ピンチのときに駆け付けるべきだろう。
言葉でいくらいってもそんなの信用できないわけだ。

つまり、
いつもそばにいたり、
ピンチのときに駆け付ける場面を描けばいい、
ということになる。
言葉で説明するよりも、
無言のそうした場面を書くほうが、
よっぽど説明になるわけだ。

つまり、説明しようとすることがわるいことではなくて、
言葉で説明しようとすることが悪いことなのだ。
これを、無言の場面でうまく説明できないか、
ということが洗練だと言える。

どんな愛の言葉を100回囁くよりも、
一回の何か無言で決めるようにすることが、
ラブストーリーを書く秘訣だと思う。
それがどんなものかが、
その物語のアイデンティティーになるに違いない。

無言だからといって、
静かな場面とは限らない。
派手な音楽が鳴ったり、
派手な効果音が鳴っているかもしれない。
しかし、登場人物は余計なことを言わず、
何かをするだけだ。
その場面をつくるとよい。

長年連れ添った夫婦を描くときに、
「私たちは50年一緒なんですよ」
「結婚してから50年一緒にいるねえ」
なんて説明台詞を言うのではなく、
おでんを食べるときに、
相手の皿から嫌いなものを取って、
自分の皿から相手の好きなものを入れてあげる、
なんてことで表現できるかもしれないわけ。
とくに何も説明なくても、
それが彼らのふつうであり、
長年連れ添っていることだ、
みたいに言うことが可能になる。
つまり、説明しているのだが、感情すら湧くようにしていくのだ。

こうすることによって、50という数字が意味があるのではなくて、
何か二人の間に余人では入れない理解や習慣があることがわかる。
その感覚を無言で共有することが、
最良のセリフということだ。

この感覚をつくるには、
観察が重要である。
現実世界で何を見たらそういうことを察するか、という観察と、
名作でこういう場面があったが、
これは無言でうまく説明していたなあ、と観察できるか、
ということだ。
一度で気づかずに、数回見て初めて発見することもあるくらいだね。

無言はだから難しい。
じつは映画の華なんだけど、
地味すぎて、あたりまえすぎて、
通り過ぎているものがいっぱいあるわけだ。


以前に「納豆お好み焼き」という、
大阪人には耐えがたい料理を出す店があったのだが、
それに怒るのはまだ東京に来て日の浅い関西人であろう。
無言で笑顔で気づかないふりをするのが、
だいぶ東京に長い関西人である。

その二人の差を見せるだけで、
東京になじんでいるかどうかを、
見せることも出来るわけ。
「お前はまだ東京に来て1か月だからなあ」
「先輩はもう3年ですかね」
なんてくだらない会話劇をやるより、
よっぽど効果的なシーンになるだろう。

こうした日々の観察が、
何かに生きるだろうなあ、
と思って無言の説明の瞬間をさがすことだね。
posted by おおおかとしひこ at 09:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック