第一稿は言葉で説明するところがたくさんあってもよい。
まだ完全体じゃなくて、
まずこういうものだ、と書くだけで精一杯だからだ。
それを第二稿以降で洗練させていくとよいだろう。
どういう風に? 言葉を使わないようにだ。
最良のセリフは無言である、
というのがハリウッドの格言にある。
それはつまり、言葉をいくら語ってもうざいだけで意味がないということだ。
言葉はいくらでも嘘をつけるしね。
たとえば、
「お前と俺は親友だよな」なんて言葉で確認したり、
説明するのは無粋だろう。
ほんとうに親友なら、
いつもそばにいたり、
ピンチのときに駆け付けるべきだろう。
言葉でいくらいってもそんなの信用できないわけだ。
つまり、
いつもそばにいたり、
ピンチのときに駆け付ける場面を描けばいい、
ということになる。
言葉で説明するよりも、
無言のそうした場面を書くほうが、
よっぽど説明になるわけだ。
つまり、説明しようとすることがわるいことではなくて、
言葉で説明しようとすることが悪いことなのだ。
これを、無言の場面でうまく説明できないか、
ということが洗練だと言える。
どんな愛の言葉を100回囁くよりも、
一回の何か無言で決めるようにすることが、
ラブストーリーを書く秘訣だと思う。
それがどんなものかが、
その物語のアイデンティティーになるに違いない。
無言だからといって、
静かな場面とは限らない。
派手な音楽が鳴ったり、
派手な効果音が鳴っているかもしれない。
しかし、登場人物は余計なことを言わず、
何かをするだけだ。
その場面をつくるとよい。
長年連れ添った夫婦を描くときに、
「私たちは50年一緒なんですよ」
「結婚してから50年一緒にいるねえ」
なんて説明台詞を言うのではなく、
おでんを食べるときに、
相手の皿から嫌いなものを取って、
自分の皿から相手の好きなものを入れてあげる、
なんてことで表現できるかもしれないわけ。
とくに何も説明なくても、
それが彼らのふつうであり、
長年連れ添っていることだ、
みたいに言うことが可能になる。
つまり、説明しているのだが、感情すら湧くようにしていくのだ。
こうすることによって、50という数字が意味があるのではなくて、
何か二人の間に余人では入れない理解や習慣があることがわかる。
その感覚を無言で共有することが、
最良のセリフということだ。
この感覚をつくるには、
観察が重要である。
現実世界で何を見たらそういうことを察するか、という観察と、
名作でこういう場面があったが、
これは無言でうまく説明していたなあ、と観察できるか、
ということだ。
一度で気づかずに、数回見て初めて発見することもあるくらいだね。
無言はだから難しい。
じつは映画の華なんだけど、
地味すぎて、あたりまえすぎて、
通り過ぎているものがいっぱいあるわけだ。
以前に「納豆お好み焼き」という、
大阪人には耐えがたい料理を出す店があったのだが、
それに怒るのはまだ東京に来て日の浅い関西人であろう。
無言で笑顔で気づかないふりをするのが、
だいぶ東京に長い関西人である。
その二人の差を見せるだけで、
東京になじんでいるかどうかを、
見せることも出来るわけ。
「お前はまだ東京に来て1か月だからなあ」
「先輩はもう3年ですかね」
なんてくだらない会話劇をやるより、
よっぽど効果的なシーンになるだろう。
こうした日々の観察が、
何かに生きるだろうなあ、
と思って無言の説明の瞬間をさがすことだね。
2025年03月25日
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