異なるキャラクター性を出したいときに使える手法。
同じものを見ているのに、人物によって評が違うと、
それを出すことができる。
同じ映画を見ているのに、
Aは爆笑して、面白い所がよかったといい、
Bは号泣して、泣ける所がよかったといい、
Cはじっくり考えて、考えさせられる所がよかったという。
同じ人物を評して、
AはXは頼れるやつだといい、
BはXを信用できないやつだといい、
CはXを利用しているという。
Xは逆に、ABCをどう思っているか創作すると、
もうそれだけで4人の複雑な人間関係模様が出来上がるよね。
つまり、
同じものでももともと多面性があり、
それのどこを見ているかは、人によって異なる。
そして、その「どこを見ているか」で、
その人の人間性や特徴を表現できるというわけだ。
「群盲象を評す」という故事がある。
目の見えない人たちが象を触って、
尻尾を触った人は象は長いものだといい、
皮膚を触った人は象は固いものだといい、
耳を触った人は象は広いものだという。
誰も全体像を把握していない。
自分の見たところしか見ていないさまのたとえ話だ。
あるいは、人は自分の好きなところしか見ていない。
神様ではないので、捉えるところしか捉えていないのだ。
そんな偏りを作っておくと、
「違い」を作りやすい。
それは時に武器にもなるし、
時に対立の原因にもなるし、
時に誤解の原因にもなる。
コンフリクトは違いから生まれる。
都合の違い、目的の違い、立場の違いもあるし、
認識の違いもあるというわけだ。
同じラーメンを食っても、
感想はさまざまにある。
同じ体験をしても、
感想はさまざまにある。
認識、記憶は、人によって異なる。
それを利用して物語の要素としていくと、
現実を反映したものになりやすいよ。
犯罪目撃の実験がある。
被験者にそれと知らせずにある場所に招いておいて、
そこで嘘の強盗事件を起こす。
「犯人の様子と犯罪の発生」をあとで聴取すると、
人によって目撃した犯人像がかなり異なったり
(着てる服も体格も色も違うらしい)、
どこからどう動いて何を盗んだか、なども異なるそうだ。
人の印象や記憶というのは、思ったよりバラバラで、
どこを見ているかは人によって異なる、ということが、
よくわかる例である。
刑事は大変だなあ、と思った記憶がある。
膨大な証言から、本当らしきものにたどり着けるかは難しいよなあと。
平均的に多かったものが正解とは限らない。
少数しかなかった目撃が本当かも知れないからね。
(これを物語にうまく使ったのが、「羅生門」であるわけだ。
真相は結局分らない、見方によって異なる、というのがテーマになるわけ)
人間関係が複雑になりがちなのは、
人に多面性があることや、
人の認識が多面性があるからである。
そして、真実にたどり着いているわけではなく、
誤解や適当な認識が多いからである。
というわけで、
その様を作りこむと、
リアルなものになるよ、という話でした。
2025年04月03日
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