2025年04月03日

多面的解釈

異なるキャラクター性を出したいときに使える手法。


同じものを見ているのに、人物によって評が違うと、
それを出すことができる。

同じ映画を見ているのに、
Aは爆笑して、面白い所がよかったといい、
Bは号泣して、泣ける所がよかったといい、
Cはじっくり考えて、考えさせられる所がよかったという。

同じ人物を評して、
AはXは頼れるやつだといい、
BはXを信用できないやつだといい、
CはXを利用しているという。

Xは逆に、ABCをどう思っているか創作すると、
もうそれだけで4人の複雑な人間関係模様が出来上がるよね。

つまり、
同じものでももともと多面性があり、
それのどこを見ているかは、人によって異なる。
そして、その「どこを見ているか」で、
その人の人間性や特徴を表現できるというわけだ。

「群盲象を評す」という故事がある。
目の見えない人たちが象を触って、
尻尾を触った人は象は長いものだといい、
皮膚を触った人は象は固いものだといい、
耳を触った人は象は広いものだという。
誰も全体像を把握していない。
自分の見たところしか見ていないさまのたとえ話だ。

あるいは、人は自分の好きなところしか見ていない。
神様ではないので、捉えるところしか捉えていないのだ。

そんな偏りを作っておくと、
「違い」を作りやすい。
それは時に武器にもなるし、
時に対立の原因にもなるし、
時に誤解の原因にもなる。

コンフリクトは違いから生まれる。
都合の違い、目的の違い、立場の違いもあるし、
認識の違いもあるというわけだ。

同じラーメンを食っても、
感想はさまざまにある。
同じ体験をしても、
感想はさまざまにある。

認識、記憶は、人によって異なる。

それを利用して物語の要素としていくと、
現実を反映したものになりやすいよ。


犯罪目撃の実験がある。
被験者にそれと知らせずにある場所に招いておいて、
そこで嘘の強盗事件を起こす。

「犯人の様子と犯罪の発生」をあとで聴取すると、
人によって目撃した犯人像がかなり異なったり
(着てる服も体格も色も違うらしい)、
どこからどう動いて何を盗んだか、なども異なるそうだ。

人の印象や記憶というのは、思ったよりバラバラで、
どこを見ているかは人によって異なる、ということが、
よくわかる例である。

刑事は大変だなあ、と思った記憶がある。
膨大な証言から、本当らしきものにたどり着けるかは難しいよなあと。
平均的に多かったものが正解とは限らない。
少数しかなかった目撃が本当かも知れないからね。

(これを物語にうまく使ったのが、「羅生門」であるわけだ。
真相は結局分らない、見方によって異なる、というのがテーマになるわけ)


人間関係が複雑になりがちなのは、
人に多面性があることや、
人の認識が多面性があるからである。
そして、真実にたどり着いているわけではなく、
誤解や適当な認識が多いからである。

というわけで、
その様を作りこむと、
リアルなものになるよ、という話でした。
posted by おおおかとしひこ at 09:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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