日本語の性質としては、
フラットな言葉を膠着語的にだらだらと繋げていく感覚だと思う。
(対義語は、構造のあるヨーロッパ言語)
なので「日本語を書く」ことと階層構造は相性が悪いと感じている。
ラクダエンさん
> 階層的な「チャンクのチャンク」を作ろうって話なんだけど、結局4モーラまで分解無しで打ちたいってことか。でも、薙刀式でも運指的には2+2とかだし、質的な違いがあるかっていうと……人によるような……
ローマ字はつまり、
原理的にチャンクのチャンクを作らないと、
滑らかに書けない方式である。
ここがqwertyローマ字の達人たちのいう、
「じゃらっと打ち」とか「打鍵塊」
に相当すると思われる。
(話が具体的なのがあまりないので抽象的な感覚だけどね)
仮に、
4モーラを2モーラ+2モーラでチャンク化すると考えるか。
「あること」を例にとると、
ローマ字では、「ある」と「こと」を1チャンクに押し込んだうえで、
「あること」を打鍵の1チャンクにつくっていく。
さらに3次のチャンクもありえて、
これらのネットワークをつなげる、
膨大な手間と実戦が必要だろう。
で、たしかに薙刀式では「あるJI」「ことVD」は、
一つずつの単位ではあるんだけど、
「あることJIVD」は全部単打なので、
これを一塊にするのはかなり容易だ。
1チャンクの情報量が少ないからだと思う。
ローマ字はどこまでいっても手数が多いので、
最終的に2階層、3階層のチャンクをつくることは可能だけど、
運用し続けるのが面倒になった、
というのが僕の感想なんよね。
薙刀式だと「あること」を1階層の1チャンクにできるからね。
その感覚が、
フラットな日本語と相性がいいんじゃね?
と思っている。
まあこの辺の感覚も「人による」といえばそれまでなんだけど、
「人による感覚の違いがこのようにある」
と言語化された例がこれまでなかったのが、
この議論の新しいところだなーと思いながら書いている。
ほとんどの議論では、
「俺はこのような感覚であり、お前の感覚はこのようである」
まで至ってなくて、
「俺はこのような感覚でありそれが当然であり、異なるお前は異端」
で喧嘩になるのが相場であった。
議論とは前提の異なることの確認なので、
僕的には「ふむ。ここまで感覚というのは異なるのだな」
ということが光の側に出てきたので、
なかなかおもしろいなーと思っている次第。
まあ、どうせ我々は感覚が真逆なのだ。
どこまでそれが根深いのか、
観察してみる良い機会だ。
とりあえず分かりやすく二項対立になっているが、
その間の感覚の人、別の感覚の人もいるのだろうか?
僕はベタ足でフラットな感覚でいたい、
と思うのはあし体だから?
で、さらに。
> あ、拍子か。1小節の長さは変わらんでも、4つ打ちと8ビートは違うわけだ。運動機能的というより音韻的な話っぼいな。これ脳内発声の有無と関係してないか!?
> 脳内発声ありだと、拍子はそこで取れてるから指で取る必要はない。指はセカンダリ拍子。でも脳内発声なしだと指の拍子がプライマリだから、1モーラより細かく分解すると頭打ちにならなくてキモい?
結論から言うと、そう。
逆に脳内発声がある人は、
脳の声をメインボーカルと考えれば、
手はサブリズムを刻んでも平気なのか!
こっちから見たら変だよ。笑
こっちは4カナ書くのに8打は違和感バリバリ。
そこがローマ字を捨てた理由だな。
スマホのフリックもそれが便利よね。
(スマホのqwertyが仮に打ちやすいデカいボタンだったとしても、
僕は使わんだろう)
結局qwertyの配置を合理的な行段系に変えても、
僕は日本語を書くのに違和感があったので、
根本的にはサブリズムを許容できない体質らしい。
合理性云々よりも、生理的な話かもしれない。
2025年01月04日
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