重要な話なので写真ごと引用。
とあるツイートから。
> こんなの買っちゃうに決まってるじゃないですか。
もちろん、キアヌリーブスとかけたダジャレだ。
ここが重要。
「まあひと笑いしたので、それに免じて一回買ってみよう」
という心理が働いてるわけ。
なおquinoaとは、
キヌアと呼ばれる雑穀で、
アンデス地方で食べられてるらしい。
雑穀というからには種を食うのだね。
で、ホウレンソウと同じ科なので、
葉も食えるのだろう。
その葉の部分を商品化したものが、
キヌアの葉ということだ。
さて、
我々は「キヌア」も「キヌアの葉」も知らない。
ここが重要だ。
広告は、「知らない人」にむかって打つ。
「食べてみればその良さが分かる」は、
広告ではない。
「食べたことない人に食べてみるかと思わせる」
が広告の役目だ。
仮にものすごくおいしかろうが、
ゲロマズであろうが関係なく、
「一度手を伸ばしてもらえるまで」こそが、
広告の担当領域だ。
だから広告は、原理上嘘をついてもよい。
「よさそう」までがエンドだからだ。
ここに広告のインチキくささが付きまとうのね。
広告はインチキと裏腹に存在する。
これはどんな広告マンでも自覚するべきことで、
誠実であればあるほど、
嘘をつかないのではなく、
「嘘の扱い方」に慣れなければならない。
(嘘の扱い方というのは、嘘のつき方ではなく、
嘘をついてるやつを見抜く力とか、
意図しない嘘など、嘘をめぐる現象に詳しくなり、
自ら自在に制御できるようになることだ)
さて。
だから、
「食べれば分かる」という誠実な文句は、
広告じゃないんだよ。
食べれば分かるに至らない人を、
食べさせるのが広告の目的なんだから。
そこで、
「食べてない人を笑わせる」
という戦略に出たわけ。
「きぬありーぶす」と言われたら、
嘘ついてないしダジャレだし、
まあひと笑いあるだろうと。
「キヌアリーブス」とカタカナ表記しないのは、
誤認を防ぐ良心だ。
というわけで、
このラベルを考えた広告屋は、
きちんと嘘の取り扱い方を知っている。
「知らない人を、食わせないまま、
金を払わせる」ことに成功しているわけさ。
ここで、
間違った広告屋は、
「商品の良さを伝えよう」とか、
「知らない知識を補完して、詳しくなってもらおう」
とするわけ。
そんなの知らんがな、興味ないわ、
という99.9%の人のことを考えてないのだ。
その人を振り向かせる手段こそが広告で、
ここではダジャレという方法論が使われた。
さて本題。
映画の広告が最近ずっとひどい。
本質を描き、良さを伝えようとする誠実なポイントすらなく、
「人気出そうなところを継ぎ接ぎする
(代表はブロッコリーポスター)」ばかりだ。
テンプレに落とし込んでるだけやん、
と思うことばかりだ。
たとえば「世界の中心で愛を叫ぶ」型か、
コメディ型か。
なんなら嘘をついて金を払わそうという覚悟もない。
キャッチコピーは心に残らない、
うんこみたいな文言ばかりだ。
(「おちこんだりしたけれど、わたしはげんきです。」
みたいな、心にすっと入って琴線を震わせるものすらない)
「きぬありーぶす」なみの、覚悟を持った映画広告を見たい。
ちなみに、
「きぬありーぶす」は美味しいのだろうか?
美味しければリピーターがつき、
商売は回転を始めるだろう。
美味しくなければ看板倒れとして廃業だ。
つまり、「広告と商品は無関係」
というのが本来の姿なのだ。
ここを取り違えて、
「我が社の商品に寄り添った広告」
と考えている素人が増えている気がする。
映画の広告はさらに下で、
商品の本質に近づいてすらない。
さて。
あなたは自分の脚本の広告を、
どうする?
キヌアの苦味や歯応えを訴える?
アンデス地方の話をする?
「きぬありーぶす」まで割り切れる?
2025年01月04日
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