フィルムの頃は基礎知識としてよく聞いた、仮現運動。
要するにパラパラ漫画の原理のことである。
現実は時間はアナログである。
ある時間とある時間の間が飛んでいることはないし、
ある時間とある時間の間は無限に小さく詰めることができる。
ところが動画はそうではない。
ある静止画があり、次の静止画に突然飛ぶような構造をしている。
つまり、動画は「動いて」いない。
静止画を連続して出しているだけで、
我々視神経(か脳)が、
勝手に「動いていると錯覚する」のだ。
これを、仮現運動とよぶ。
動いていないのに、動いていると思う錯覚の運動のことである。
フィルムの場合、1秒間に24の静止画を出して、
テレビの場合、1秒間に30の静止画を出して、
Youtubeの場合、1秒間に25の静止画を出して、
PCモニタやハイスペックモニタは1秒間に60の静止画を出している。
(厳密な話をするとドロップフレームの話になるので、
そこはここでは避ける)
この場合、コマ数はどうでもよい。
問題は、
「連続しているはずの時間が、
有限個の静止で区切られている」ということだ。
現在の映像技術は、すべて仮現運動の上に成り立っている、
というのは間違いない。
で、脚本に戻る。
脚本はアナログ的な連続か?
という問いである。
一見時間を描いているように思うので、
アナログであり、連続しているように思えるはずだ。
だけどそうだろうか?
言葉は区切りがある。文節でもいいし、単語でも区切りがある。
そこで我々は、言葉による仮現運動をみているだけじゃね?ということなのだ。
つまり、言葉は区切りの静止画単位でしかなくて、
時間をデジタルに区切っているのでは?ということ。
我々はそれを脳の中でつなぎ合わせて、
「時間的に連続した気持ち、時間的に連続したストーリーの流れ」
を脳の中で感じているだけでは?ということだ。
つまり、脚本や言語は、
連続するアナログ的な時間を、
非連続のデジタル的な言葉で、
パラパラ漫画にしている、という言い方ができるだろう。
実態としては非連続なのに、
見ている我々は連続したアナログ意識になっている、
という、
実態と効果が異なるものを、
我々は扱っている、ということである。
さて。
脚本の悩みのひとつに、
「連続しない」とか「ブツ切れになっている」
というものがあると思う。
これまで書いたことと、次に書くべきことがつながらない、
という焦りのような感覚である。
(無自覚にやってしまっている場合もあるよ)
だが安心したまえ。
そもそも言葉は連続していないのだ、
と開き直れ、ということを言おうとしている。
だけど、それが「出来上がりが連続していない」
という欠点を放置することを意味しない。
「非連続の道具を使って、
意識が連続するように工夫することが、
脚本を書くことである」
という風に思えばよいのだ。
楽器だって、音符はデジタルだよね。
その順番や長さが繋がることで、
滑らかな音楽を奏でるわけだ。
その音符ひとつが、言葉ひとつであると考えれば、
デジタルの非連続なもので、
意識や時間感覚という、アナログな連続を描いているのだ、
と考えられるわけだ。
ということで、
「つながらない」のは悩みではなく、
現状に過ぎない。
つながらないものを、言葉でつなげばいいのだ。
幸い、日本語というのは、
適当につなぐことができる。
司会進行をしたことがあるだろうか?
会の進行が滞っているとき、適当につなぐ必要がある。
途切れた何かがあっても、言葉でフォローすることがある。
そうやってアドリブで対応していることが司会進行の役目である。
下手糞な進行の会に上手な司会がつくと、
うまく司会進行して繋いでいる様子を観察することができるだろう。
いわゆるMCの役目だね。
それを沢山見るために、結婚式会場でバイトする手もあると思う。
ライブ会場でバイトして、沢山のMCを聞く手もある。
あなたはそれをやればよい。
連続する時間を描こうとするから難しいのだ。
非連続で繋ぎ、
まるで連続であるような、
パラパラ漫画をあなたは書いているのだ。
そういう意識にしてみると、
「つながらない」という悩みはいったんなくなると思う。
つなげれば、つながる。
言葉による接続で、
意識の連続を作れば良い。
2025年04月06日
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