ある人の行動の価値を示したい。
自分からやったとして、
それをそのまま描写してもこっちは解釈が難しい。
どう思ってほしいんだ?ってなってしまう。
そういう時に、周囲の人のリアクションを使うとよい。
眉をひそめるならばよろしくないことだと分るし、
拍手されるなら称賛するべきことだろうし、
苦笑いされるならそういうことだ。
視線を合わせてくれないこともあるだろう。
本人としては猛烈に恥ずかしいが、
拍手が起こることによって救われることもあるだろう。
本人としては正義のつもりでやっても、
ブーイングを受けることもあるだろう。
周囲は非難するかもしれないが、本人は正義のつもりでやっていて、
わずかな人だけが拍手してくれることもあるだろう。
行動Aがどのような価値があるか、
それだけでは評価しづらいことがある。
周囲の人のリアクションを使うのだ。
「誤解される」というリアクションでもいいよ。
「理解されない」というリアクションでもよい。
そして、映画の外の常識に照らして、というリアクションでもいいし、
映画の中の特殊な世界の常識に照らして、
というリアクションでもよい。
特殊な文脈、たとえばナチス統治下のドイツでは、
ふつうの行為さえ憲兵の迫害対象になるだろう。
周囲がなんというか、なんと思うかによって、
Aの「今の文脈の」価値を示すことができる。
よかれと思ってやった行為でも、
外れだと思われることだってあるわけだ。
思い切って死ぬ思いをしてやったことが、
その通り評価されるとは限らない。
評価は常に別の文脈にいる他人である。
それは人生でも同じだし、
物語の中でも同じだということだ。
世間は笑うだろう、しかし正しいのだ、とか、
世間は従う、しかしそれは本当は悪なのだ、とか、
世間は騙される、誤解は正せない、とか、
リアクションと真実を別にしても良いし、
きちんと世間は分ってくれる、でも良い。
どちらにしても、
リアクションでその文脈での価値が決まる、
という点では同じである。
もしAがBと評価されてしまったら?
AがAと評価されるのか?
そういうことでストーリーをつくっていくこともできる。
漫才にはボケとツッコミがあって、
ボケがおもろいかどうかは、ツッコミ次第できまる。
「暑いでんなー」「寒いわボケ!」
という単純な会話でも、
暑いというのはボケで言っているのだな、
ということがツッコミから理解できるわけ。
正しく、平均的な感覚はツッコミが持っていて、
異常な感覚はボケが持っている、
というのが漫才の構造だね。
つまり、Aの価値をリアクション側が決めている。
もちろん、闘技場のようにまわりに観客が常にいるわけじゃない。
だから、今会話している相手がいるだろうし、
その場にいるエキストラ(たとえばカフェなら客や店の人)が、
世間を代表することもある。
ネットにさらされて、ネットが新たな「世間」になることもあるだろう。
記者にスクープされてニュースになってもいいよ。
カフェなら、「ちょっとすいません、隣で会話を聞いていた者ですが」と、
リアクションのために入ってきても良い。
(前も書いたかもしれないが、
うちの先輩が二人で飲み屋で上司のことを愚痴ってたら、
隣のオッサンに「さっきから聞いてりゃな、
あんたらも中途半端なんだよ」って絡まれたことがある。笑)
フェミババアだけ真っ赤にキーキー言っても、
他の人全員が拍手したっていいわけだ。
行動Aの価値が、当人によって自明で示せなくても、
周囲のリアクションを使うとよい。
むしろそのことで、色々なギャップをつくることも出来るぞ。
一人でストーリーを進めることは出来ない。
必ず他の人が必要だ。
石を投げて、反射の仕方で変わるのだ。
2025年04月08日
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