2025年04月08日

行動の価値は、リアクションで表現できる

ある人の行動の価値を示したい。
自分からやったとして、
それをそのまま描写してもこっちは解釈が難しい。
どう思ってほしいんだ?ってなってしまう。


そういう時に、周囲の人のリアクションを使うとよい。

眉をひそめるならばよろしくないことだと分るし、
拍手されるなら称賛するべきことだろうし、
苦笑いされるならそういうことだ。
視線を合わせてくれないこともあるだろう。
本人としては猛烈に恥ずかしいが、
拍手が起こることによって救われることもあるだろう。
本人としては正義のつもりでやっても、
ブーイングを受けることもあるだろう。
周囲は非難するかもしれないが、本人は正義のつもりでやっていて、
わずかな人だけが拍手してくれることもあるだろう。

行動Aがどのような価値があるか、
それだけでは評価しづらいことがある。
周囲の人のリアクションを使うのだ。
「誤解される」というリアクションでもいいよ。
「理解されない」というリアクションでもよい。

そして、映画の外の常識に照らして、というリアクションでもいいし、
映画の中の特殊な世界の常識に照らして、
というリアクションでもよい。
特殊な文脈、たとえばナチス統治下のドイツでは、
ふつうの行為さえ憲兵の迫害対象になるだろう。

周囲がなんというか、なんと思うかによって、
Aの「今の文脈の」価値を示すことができる。
よかれと思ってやった行為でも、
外れだと思われることだってあるわけだ。

思い切って死ぬ思いをしてやったことが、
その通り評価されるとは限らない。
評価は常に別の文脈にいる他人である。
それは人生でも同じだし、
物語の中でも同じだということだ。

世間は笑うだろう、しかし正しいのだ、とか、
世間は従う、しかしそれは本当は悪なのだ、とか、
世間は騙される、誤解は正せない、とか、
リアクションと真実を別にしても良いし、
きちんと世間は分ってくれる、でも良い。
どちらにしても、
リアクションでその文脈での価値が決まる、
という点では同じである。

もしAがBと評価されてしまったら?
AがAと評価されるのか?
そういうことでストーリーをつくっていくこともできる。

漫才にはボケとツッコミがあって、
ボケがおもろいかどうかは、ツッコミ次第できまる。
「暑いでんなー」「寒いわボケ!」
という単純な会話でも、
暑いというのはボケで言っているのだな、
ということがツッコミから理解できるわけ。
正しく、平均的な感覚はツッコミが持っていて、
異常な感覚はボケが持っている、
というのが漫才の構造だね。
つまり、Aの価値をリアクション側が決めている。


もちろん、闘技場のようにまわりに観客が常にいるわけじゃない。
だから、今会話している相手がいるだろうし、
その場にいるエキストラ(たとえばカフェなら客や店の人)が、
世間を代表することもある。
ネットにさらされて、ネットが新たな「世間」になることもあるだろう。
記者にスクープされてニュースになってもいいよ。
カフェなら、「ちょっとすいません、隣で会話を聞いていた者ですが」と、
リアクションのために入ってきても良い。

(前も書いたかもしれないが、
うちの先輩が二人で飲み屋で上司のことを愚痴ってたら、
隣のオッサンに「さっきから聞いてりゃな、
あんたらも中途半端なんだよ」って絡まれたことがある。笑)

フェミババアだけ真っ赤にキーキー言っても、
他の人全員が拍手したっていいわけだ。

行動Aの価値が、当人によって自明で示せなくても、
周囲のリアクションを使うとよい。
むしろそのことで、色々なギャップをつくることも出来るぞ。


一人でストーリーを進めることは出来ない。
必ず他の人が必要だ。
石を投げて、反射の仕方で変わるのだ。
posted by おおおかとしひこ at 10:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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