散歩はアイデアの宝庫である。
アイデアを歩いてて見つけるのもあるけど、
基本は発見は頭の中にある。
なんでだろう。
世界の情報量のせいで、
頭の中の情報量が結構小さくなるからだと思っている。
つまり、
頭の中だけで考えているとき、
机の上での構想は、
情報量がとても細かく、粒度が細かいのだ。
色んな情報が飛び交い、それをまとめる、
という場にいるものだ。
これが散歩にでかけると、
周囲の情報の処理に追われるため、
頭の中の作品の情報が、細かいところが捨象されるわけ。
つまり、
「大雑把に作品を見る」ことに成功しているんだと思われる。
絵でいえば、遠くから見ることね。
頭の中のものをズームアウトしても、
細かいディテールが残ったままズームアウトしてしまう。
一番細かいところが残ったまま、
情報量が増えるかたちでズームアウトしてしまう。
ところが、ズームアウトするときに、
散歩の世界の情報を見ることで、
作品世界の情報をそんなに保持できなくなる、
という仕組みだろうと思う。
作品純粋な目線よりも、
雑踏の中に作品をおけ、ということだ。
ツタヤがあったころ、
僕はよくツタヤの棚を歩くことをやっていた。
こうすると、
作品たちに囲まれるので、
一本当たりの情報量がとても小さくなり、
「ある作品を俯瞰してみること」ができるようになる。
一行でこの作品をいうならば、
一点だけいうならば、
というレベルに、どんな名作駄作も圧縮されてしまう。
その粒度で、自分の作品を見るトレーニングをしていたものだ。
まあ、それが散歩でも出来るよね、ということ。
よっぽど集中しなきゃいけない散歩などないから、
適当な情報量に自分をさらすことが出来る。
(最悪立ち止まって散歩を中断して、
集中作業に戻すことも可能だし)
こうして、適宜作品の情報を捨象して、
おおづかみにとらえることが出来るようになる。
そうすると、隙間があいて、
そこにアイデアの芽が生えることがある、
というわけだと思う。
隙間のない、ぎちぎちの空間に、アイデアの芽は生えない。
余裕があり、根を伸ばす空間があると、
アイデアというのは伸びると思う。
つまり、アイデアの余裕空間をつくるために、
他のディテールを捨てるのだ。
よく見ると矛盾していたり、
両立しなかったりするんだけど、
そんなブレーキを踏んでいたら、
いつまでたっても新しいアイデアは思いつかない。
なので、間違ってもいいから、
芽を出してみることが重要だね。
ということで、散歩しよう。
ひまなオッサン扱いされること請け合いなので、
文庫本という小道具をもっていると、
知的にみられるかも。
2025年04月11日
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