2025年04月11日

散歩してると捨象される

散歩はアイデアの宝庫である。
アイデアを歩いてて見つけるのもあるけど、
基本は発見は頭の中にある。
なんでだろう。
世界の情報量のせいで、
頭の中の情報量が結構小さくなるからだと思っている。


つまり、
頭の中だけで考えているとき、
机の上での構想は、
情報量がとても細かく、粒度が細かいのだ。
色んな情報が飛び交い、それをまとめる、
という場にいるものだ。

これが散歩にでかけると、
周囲の情報の処理に追われるため、
頭の中の作品の情報が、細かいところが捨象されるわけ。

つまり、
「大雑把に作品を見る」ことに成功しているんだと思われる。
絵でいえば、遠くから見ることね。
頭の中のものをズームアウトしても、
細かいディテールが残ったままズームアウトしてしまう。
一番細かいところが残ったまま、
情報量が増えるかたちでズームアウトしてしまう。

ところが、ズームアウトするときに、
散歩の世界の情報を見ることで、
作品世界の情報をそんなに保持できなくなる、
という仕組みだろうと思う。

作品純粋な目線よりも、
雑踏の中に作品をおけ、ということだ。

ツタヤがあったころ、
僕はよくツタヤの棚を歩くことをやっていた。
こうすると、
作品たちに囲まれるので、
一本当たりの情報量がとても小さくなり、
「ある作品を俯瞰してみること」ができるようになる。
一行でこの作品をいうならば、
一点だけいうならば、
というレベルに、どんな名作駄作も圧縮されてしまう。
その粒度で、自分の作品を見るトレーニングをしていたものだ。

まあ、それが散歩でも出来るよね、ということ。

よっぽど集中しなきゃいけない散歩などないから、
適当な情報量に自分をさらすことが出来る。
(最悪立ち止まって散歩を中断して、
集中作業に戻すことも可能だし)
こうして、適宜作品の情報を捨象して、
おおづかみにとらえることが出来るようになる。

そうすると、隙間があいて、
そこにアイデアの芽が生えることがある、
というわけだと思う。

隙間のない、ぎちぎちの空間に、アイデアの芽は生えない。
余裕があり、根を伸ばす空間があると、
アイデアというのは伸びると思う。

つまり、アイデアの余裕空間をつくるために、
他のディテールを捨てるのだ。

よく見ると矛盾していたり、
両立しなかったりするんだけど、
そんなブレーキを踏んでいたら、
いつまでたっても新しいアイデアは思いつかない。
なので、間違ってもいいから、
芽を出してみることが重要だね。


ということで、散歩しよう。
ひまなオッサン扱いされること請け合いなので、
文庫本という小道具をもっていると、
知的にみられるかも。

posted by おおおかとしひこ at 08:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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