リライトをやめるタイミングはとても難しい。
変に改稿を続けると、
どこかでピークを越えてつまらなくなってしまう。
なぜだろうかね。
初見の人に見せるべき原稿が、
「すでに内容を知っている人に見せるもの」に、
変質していくからじゃないかと思う。
人生で初体験するワクワクや不安がなくなって、
知っている前提で楽しむものに、
どこかで変質してしまうんだよね。
それはずっとリライトしている人だと気づきにくいものだと思う。
たとえば歌舞伎や落語などの古典芸能だと、
「みなさんご存じの」をやることになっているが、
それって一見さんをあまり対象にはしてなくて、
〇〇版の「〇〇」の解釈をみたい、
なんて人用になっている。
義経千本桜は僕はどういう話か知らないが、
それを知ってる人用に演じられていることがとても多いらしい。
ほんとに演じると一日かかる演劇らしいが、
現実的には無理なので、〇場だけやる、
みたいなことが定着しているので、
それを全部分かったうえで、
「ははあ、この場を今回はやるのか」という客しか楽しめないつくりになっている。
それは今が悪いのではなくて、
江戸時代からそうだったから、伝統を守らざるを得ないわけだね。
現代で近しいのは、シリーズものだ。
前のストーリーをみている前提になっているから、
どんどん前のを踏まえた今が多くなってくる。
それは初見ではよくわからないので、
初見の客は減っていくわけだね。
リライトしすぎると、
こうなりがち、という警告である。
自分はストーリーの全体構造を知っているし、
その後の展開も知ってるし、
なんならいくつかのバージョン違いも試したし、
全キャラクターの性格は全部分かってるし、
という状態になっている。
だからそれを前提とした「新しいアイデアを思いついた!」になりがちで、
客観性、一見の人がみたら、という視点を欠きがち、
ということである。
そうなっているな、
と思える兆候は、経験上いくつかある。
1 文言のちょっとした直しをしたくなる
「〜なのだ」を「〜だ」にしたくなるとか、
そういう直しだ。
もうそれってそろそろ完成度が上がってるから、
終わりでいいよ、というサインだと思う。
それで大きなストーリーやその価値は変わらんだろ、
と判断するべきなのだ。
2 別の新作を思いつく
僕はよくある。
ずっと忙しく脳を働かせてきたから、
そのフル回転の感覚を使って、
今ぬるくなりつつある作業を、
別の作業で埋めたい、という心理でも働くのだろうか。
3 ずっと直してたいなあ、と名残惜しくなる
今回の話はこれだ。
劇中のキャラクターに愛着がわき、
ずっとこの世界にいたいなあ、と思ってしまって、
ずっとこの世界に居続けるために、
リライトをしてしまう、という行為である。
これは完成度を下げる行為になる。
なぜなら、
動機が「この世界にいたいから」であり、
「この世界を初めて味わう人にもっともよく浸透する方法」
を探すことにはないからだ。
だから、これを知っている人前提を楽しませるもの、
だけを考えがち。
二次創作状態に陥っている、ともいえる。
それを知ってる前提で楽しむものは、
一次創作ではない。
ここ最近書いてきた話が、
この状態に陥っている。
それでいて、新作のアイデアは出ていない。
手持ちぶさたに困ることになりそうだが、
リライトを終わらせたほうがいいだろう、
と判断をすることにした。
潮時は愛着。
愛着をはがすのは痛みを伴う。
しかしその世界がほんとうに完結したのならば、
二度とそこに戻ってはならない。
時間とはそのような性質を持つと思う。
愛着は点であり、
物語は線だ。
永遠の変化をする線を、点の愛情で包んではいけない。
全部が点という、時間軸のないものになってしまう。
2025年04月20日
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