僕は昔脚本力があるとは、
ものすごい芸術的に価値のある、
120点をつくる力だと思っていた。
これまでの常識を覆す、新作としての価値をつくる力だと。
最近思うのは、そういうことじゃないと。
「どんな状況からでも、おもしろい話をひりだすこと」
の力が脚本力なんじゃないか。
つまり、脚本というのは、
それだけ直しが多いのだ。
10稿、20稿は直すと思いなさい。
しかもあなたがベストと思う最終稿から、
それだけ直しが入る可能性があるわけ。
完璧主義の芸術家は、これに耐えられないと思う。
直せば直すほど、
完璧なゴールから遠ざかる感覚になる。
120点が110点になり、90点に下回り、70、60、50となっていくだけのルートをたどる。
これは、芸術力はあっても、
脚本力がなかったのだ、と考えるとよい。
脚本力とはつまり、
どんな状況になったとしても、
つねに面白いストーリーのパターンをひりだせる力、
と定義してもいいかもしれない。
転んでもただでは起きなくて、
むしろ転ぶ前より面白くできる力、
だと思うとよい。
僕は、この力が「いけちゃんとぼく」の時は、
なかったと思える。
なぜなら最初に書いた第一稿から、
徐々に詰まらなくなっていったと思うからだ。
制作費は途中で1億削られた。
CGメインから子供ドラマメインに修正が入った。
そのとき、ただただ削られることだけに耐えていた状態が、
いけちゃんの脚本だと思っている。
150点くらいのが、最終的に65点くらいまで下がった感覚。
150点を一個つくれば終わりならば、
小説家のほうが向いているかもしれない。
脚本力とは、90点を15回出せる力、
といっても良いだろう。
たぶん150点の脚本なんてなくて、
90点から0点の脚本があるだけなんだよ。
どんな修正をされたとしても、
つねに90アベレージを出せる人が、
脚本力がある人、ということになる。
ちなみにスタッフからは、
CMの現場で鍛えられてきたせいか、
状況の変化に対してアドリブが効く監督、と評価されていた。
ふつうの映画畑の人は、こんなに状況が変ったら、
何もできなくなるんだって。
いやー、全然足りないです、と当時は思ってたのだが、
もっと足りない人たちがやって、
ぐずぐずの日本映画になるんだなあ、
と嘆かわしく思ったことをよく覚えている。
僕は150点を1本作る力はあったかもしれないが、
当時は90点を連発できる力はなかった。
だから10年も15年もこうやって鍛えなおしているようなものだ。
今なら、大体どんな暴投が来てもヒットを打てる、
岩城のようになっていると思える。
それくらいには鍛えたと思う。
それが分ったのは、
CMにおいて修正が起きたとき(それは映画どころではなく発生する)、
修正を要求する人たちは、
それが悪くなると思って指示していない、ということが分ってからだ。
なぜそういう指示をするのか、
それにはどういう意図があるのか、
じゃあそもそもこれの良さを理解していなかったんじゃないか、
というところに戻らないと、
修正の指示を聞いてるだけだと150点はすぐに0点になってしまうからね。
じゃあ、これの良さを保ったまま、修正を成立させるのか、
いやこれは捨ててこういう良さにしましょう、
と立ち直れるかで、
対応力が決まる。
それが出来ない人は、折れていく。
脚本力は、こういう力のような感じ。
どうやったとしてもおもしろいストーリーにできる、
という確信というか、へんな自信みたいなものだと、
思うといいだろう。
せっかく150を出しているのに、
70に折られるのなら、
やる意味がない、と放り出したくなるだろう。
そのときでも90に直せるか、
という問題なのだ。
90出せれば問題ないよ。
なぜなら、世間の脚本のレベルは70くらいだからね。
それを上回るだけで平均をはるかに超えるものをつくれるよ。
時代を越える名作は120とかあるけど、
それはそれを最初に書いてみなが理解した幸運がないと成立しないんじゃないか。
70になると折れちゃうんだよね。二度と出来ないと。
いつでも90が書けるなら、
よし、今回も90から98を目指すぞ、
って開き直れるよな。
それで、70以下の脚本をぶっちぎればいいよ。
2025年04月21日
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