なぜ物語にはテーマが必要なのか、
という理由は、これのような気がする。
汚い部屋が整理整頓されると感動するよね。
これは本来こうであったのか、と。
汚い資料が整理整頓されると感動するよね。
ぐちゃぐちゃの現実は、
このように整理されるのかと。
つまり、人間は、ごちゃごちゃのカオスが、
ある種の秩序になったときに、
感動が発生するということだ。
数学の問題やパズルの問題を解くときも、
同様の快感があると思う。
格闘技や将棋でも「詰み」に持っていくやり方は、
とても気持ちがよいものだ。
その快感が、物語にもあるということだ。
これまで苦労してやってきたこと、
人間関係や事件の解決などが、
最後にはひとつに整理されると、
気持ちよいのである。
なるほど、これらのごちゃごちゃはこのように整理されるのだ、
となると、快感なのだ。
テーマが必要、というのは語弊がある。
必要だからテーマを置きなさい、
それでまとめなさい、ということではない。
テーマで整理される物語は快感だから、
整理されない物語は人気が出ないぜ、
ということに過ぎないのだ。
ある事件が起きて、感情移入して、
行動があって興奮して、七色の感情が刺激されて、
見事な解決をしたとしても、
つまり一見見事な脚本を書いたとしても、
それがテーマを欠き、単なる事件のひとつでした、
でしかないなら、
満足は半分以下になってしまうだろう。
「これはこのような意味があって、
最初からそのために語られていたのだ!」
となるから、パズルを解いたときのような、
部屋が整理整頓されたときのような、
快感があるわけなのだ。
つまり、テーマとは「作者の言いたいこと」なんてちゃんちゃらおかしいものではなくて、
テーマとはオチの快感要素なのだ。
「あー、このテーマに落ちたのかー、見事!」
という芸なんだよ。
それは、どんな感動するシーンとか、泣けるシーンとか、
笑えるギャグシーンとか、わくわくする冒険シーンよりも、
快感として強い、ということだ。
テーマがはっきりと分り、
2時間かけてきたものが、このように整理される、
という、整理整頓の芸術なのだ、
と思うと、
テーマがなぜ必要か、が分る。
つまりテーマは、最後の最後の快感要素なんだよね。
分りやすいものは、「地下鉄のザジ」だろうか。
単純な映画だ。
小学生の女の子が、
いたずらをしまくって、狂騒曲のような状況になってゆく。
ドリフのコントの連続のようなものだ。
それがどんどんエスカレートして、最後は大爆発するような感じ。
それだけで終わったら、単なるから騒ぎで、
単なるドタバタコメディに過ぎないのだが、
主人公のザジは最後に「ひとつ歳を取ったわ」とオチをつけて終わる。
つまり彼女の子供時代は終わり、
大人になってしまったので、
これまでの大騒ぎは二度と戻らない、
貴重な時間であった、と逆転するんだよね。
この「あー!」と思える瞬間こそが、
「テーマに落とされたときの快感」だと思う。
そして、おそらくだけど、
この快感は、物語にしかないのではないか。
とくに映画は2時間でここまでたどり着かないといけない。
演劇やドラマや漫画はもっと長くてよいだろうが、
2時間で結着をつけて、かつテーマに落とすには、
相当の腕がいると考えられる。
むしろ、映画とは、
ガワで客を呼んでおいて、
テーマで落とす快感を提供する、
フルコースだとも考えられる。
映画がなぜおもしろいかというと、このフルコースの楽しみがあるからだと思う。
教科書には、
「テーマを持った話を書きなさい」
「テーマがないとだめです」と、
原理のように書いてある。
しかし、「なぜテーマがないとだめなのか」を解説している人は見たことがない。
なので、解説してみた。
それが無きゃダメという義務じゃないんだ。
そのオチの快感こそが、物語の快感なのである。
ちなみに、「地下鉄のザジ」で、
そのラストシーンがなくて、
単に大爆発して終わって、「だめだこりゃ」で終わったら、
何も心に残らないだろうね。
いたずら違い、大騒ぎ違いにしかならない。
そうじゃなくて、それが大人になること、
という結びつきこそが、テーマに落ちる快感であり、
それがこの映画のアイデンティティだからね。
(この落ちはこの映画でしか見たことが無い。
一回きりの大ネタだろう)
というわけで、テーマに落とせ。
その快感を見せてくれ。
ちょうど2時間で落とす娯楽だと思うとよい。
世界は整理整頓を待っている。
あなたがあなたなりの整理をしてみせてくれ。
2025年04月22日
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