2025年04月23日

話とはつねに部分集合である

2時間ちょうどのリアルタイム映画でない以上、
事態のスタートから終結までの、
どこかが必ず省略されている。

つまり、話とは、つねに全体集合の部分集合をもって語られる。


ある事件を語る話を考えよう。
犠牲者と犯人がいるとしよう。
それの何を語れば「話が分かった」ことになるだろうか。

事件の種類によるだろうが、
「様々な都合を全部描く必要はない」
ということを言おうとしている。
つまり、
「語られたものは、語るべきものの常に部分集合である」
ということだ。

それは尺の都合だろうか?
そうではない。
「そのように切り出したほうが、よりよい」からなのだ。
つまり、「語られなかったことは、直接語られることよりも、
想像に任せたほうがよくなる」
ものがあり、
そのようにしたほうが、全体がよくなる、
ということを言おうとしている。

つねにいうところの、パンチラはパンモロよりエロイ、
という話である。
ここはもろに出さずに、チラで済ませたほうが効果的である、
という箇所がつねにあり、
それはうまく省略したほうがキレが増す、
ということを言おうとしている。


省略には3種ある。

事前、途中、事後のうち、
どこから始めるか、ということだ。

全部を描くのではなくて、
事前と途中を描いて、事後は人々の噂話にするとか、
事前と結果だけ描いて、途中は想像に任せるとか、
事前を描かず、いきなり途中、事後を描き、
なぜそうなったのか想像させるとか、
をすればいいわけ。

事前、途中、事後を全部描くのを、オンで描くともいうし、
何かを省略するのをオフで描く、
という言い方をすることもある。

時系列通り、順番に描いている部分があるとして、
それのどこかを省略したいなあ、というときは、
事前、途中、事後のどれを省略すると、
効果的なパンチラになるか、想像がふくらむか、
ということを考えると、
よい省略が出来るかも知れない。

123456と素直に描かなくてもよい。
人は省略で想像する生き物だから、
12 6とやったって面白くなるかもしれないよ。
そこに全部ない7だけやってもいいかもしれないよ。
柔軟に、いろいろ考えるのも悪くない。
どうしても文字数をここで減らしたいときは、
7を考えることで一括にする手だってあるぞ。

全体集合を書くことが物語を書くことではない。
部分集合だけで面白く描けるなら、
それはそれでひとつの物語である。
posted by おおおかとしひこ at 08:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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