Twitterから。
> QWERTY配列じゃないDvorak配列とか大西配列とかの配列やって「うおぉ〜!効率化!!ライフハック!!人間工学的ハック!!」するのも楽しいかと存じます。
効率化のために配列を変えるんじゃないのよね。
「qwertyは日本語を普通に書くのに手間が多すぎる」から、
「ましなものにする」だけなのよね。
つまり、配列を変えた後はそれが普通になりすぎてて、
qwertyに戻した時だけ「なんだこのクソは」って思うのが、
配列を変えた人の心理状況なんだよなー。
得してるという利得感覚はなくて、
損を脱した、くらいの感じ。
幸せになりました、毎日幸せです、
というのは麻痺をするものだ。
その幸せがデフォになるので、
そこに幸福感を感じなくなり、
それが当たり前になってしまう。
だから生活水準は下げられない。
生活水準を下げるのは不幸になることだ。
一方、現状が不幸だと知った人は、
○○すれば幸せになれるのに、
と幸せの方向を目指すようになる。
しかしユートピアにたどり着いたときは、
そこは普通の国でしかなかったという。
ユートピアで幸福を感じ続ける人間と、
ユートピアが普通になってしまう人間がいて、
後者が増えた理由は、
「さらなる改善をできる」からだろう。
そうして人類は進化をつづけてきたのだろう。
つまり、新配列だけがゴールではないことに、
○○配列が日常になったら気づくのである。
自作キーボードは気になるし、
沼に入ったら無限の改良ができるし、
自キは100万円つぎ込んでも改良点は見つかるし、
僕みたいに「打鍵姿勢」を研究する羽目になることもある。
そもそもキーボード入力って、
合ってるのか?なんて考え始めて、
音声入力に行く人もいる。
自作キーボード界隈で定期的に万年筆が流行るのは、
キーボードが本当に正しいのか、
と無意識に疑問をもって、定期的に距離を測るためだと僕は思う。
フットペダルや、空間に何か書くのをカメラで読み取るとか、
そういうことを始める人もいるだろう。
そうやって、人類は進歩すればいいさ。
○○配列は、だからライフハックうひょー、
って言えるのは最初の数週間くらいじゃない?
慣れてきたら慣れてしまって、
ただの車に乗ってる感覚になると思う。
フェラーリ買っても半年すれば飽きるでしょ、たぶん。
でも、前のに戻った瞬間、
これじゃねえよ、ってなるのさ。
「○○配列始めました!がんばるぞー!」
「○○配列○日目!だいぶqwertyに追いついてきた!」
まではみんな嬉々として記録するんだけど、
「○○配列はqwertyをはるかに超えた!
毎日幸せ!最高のライフハック!」
ってテンションで毎日いう人はいない。
それは、幸福に慣れてしまうからだろうと思う。
だから○○配列マスターは、
qwertyディスしか配列について発言しなくなるのだ。
人は常に現状に不満で、上を見て、下を忌避する生き物なのだ。
○○配列を普通に満足して使う人は、
だから発言をしなくなる。
あまりにも日常になってしまったからだ。
便りのないのが良い便りみたいになるのだ。
僕は薙刀式そのものにはほとんど不満がなくて、
多少のマイナーカナや編集モードの一部をいじってるが、
薙刀式自体はふつうになってしまって、
ここはパラダイスみんなおいでよ!ってテンションではない。
え、みんなこんなに苦労してんの?
って方向にしか心理が作用しなくなっている。
もっとここは涅槃だぜみたいな話をしたほうが、
ライフハック志望者を増やせるとは思うんだけどねー。
薙刀式はいいぞ。
僕のこの膨大な書き込みは、一記事10〜20分でいつも書いてるよ。
コーヒー飲むくらいの時間で書ける。
ちょうどいい休憩時間みたいに書いてる。
それを幸福だと僕は思う。
たぶん薙刀式にして最も幸福はことは、
たくさん速く書けることではなくて、
たくさん速く書くことで、
「考えを前に進める」ことじゃないか。
つまり究極のライフハックは、
「お先に次の世界を考えます」なのだろう。うひょー。
2025年01月15日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック