2025年01月18日

人生丸裸

物語というのは、人生を丸裸にする。
丸裸になっていない物語は、どこかよそよそしい。


何もあなたが脱げ、ということは言っていない。
映画的なシナリオは三人称である。
あなたの裸には誰も興味が無くて、
主人公という他人の丸裸に興味があるわけだ。

どういうことかというと、
どういう生き方をしているとか、
どういう人生観をしているかとか、
どういう稼業についてて、どういう金を得ていて、
どういう貯金があって、どういう将来を思い描いているか、
ということだ。
どんな哲学があって、どんな弱点があって、どんな恥があって、
ということだ。
あるいは、隠してるところを全部晒せ、
ということだ。

(分かりやすい例は、中居の女性暴行の件での、
プロデューサーが上納したという疑いに関する、
フジテレビの社長会見だ。
「何もかも隠してるだろ」としか思えない。
これじゃあ全然丸裸になってねえよな、って思うわけ。
たとえば上納先はたかがタレントではなく、
もっと大物なんじゃね?って疑惑とかね。
女が口が硬いかどうか試すために、まずはタレントレベルにしてたとかさ。
あなたは脱ぐ立場にいるのではない。
この脱いでない他人を、脱がせる立場にいる)


良いことばかりじゃなくて、
悪いところだらけということも大事だ。
裸がきれいなのはヌードモデルだけである。
ほとんどの人間の裸は汚い。
その汚さごと描くのが物語である。

つまり、その人の丸裸があって、
汚い部分があるとしても、
きれいな部分があるとしても、
全体としては良いのである(ハッピーエンドの場合)、
全体としては悪いのである(バッドエンドの場合)、
という風になっているかだ。

何の欠点のない男が、完璧な事件解決をすることに、
人はあまり興味がない。

それよりも欠点やひどいところや欠損がある人が、
それを込みで汚い汁にまみれて、
それでもなんとか成功するほうが、
見世物としてはおもしろいわけ。
それはきれいごとじゃない、ほんとうの人生の気がするからだ。

アイドルがきれいな世界を歌い、きれいな服を着てメイクをして、
人がうらやむような暮らしをしてて、
それが事件を解決することには、
僕等は興味がない。
もっと汚い、人間の本質を見たいわけ。

ワイドショーはきれいごとだけをやらず、
汚いことだけもやらない。
清濁併せのむことをやっている。
そういうのが見たい、というのが人間の本質だ。

だから、キレイも汚いも含めて、
丸裸になる。
主人公の人生が。
これならちんこ晒したほうがまし、
くらいのレベルで晒される。

もちろん架空の主人公の架空の人生ではあるが、
その裸的な晒され方が、真実を描くレベルであることが、
物語がほんとうらしく感じられるということだ。


その主人公は何かを隠していないか?
嘘をつこうとしていないか?
きれいごとで終わらせようとしていないか?
汚いことも込みで、それでも何をしようとしているか?
大恥をかいているか?
そこに人間的な魅力が出ると思うよ。


丸裸になってないやつに、
感動の余地はないと僕は思う。

汗まみれ、涙まみれ、鼻水まみれになりながら、
その人の出来る全部をたたきつける。
そういう物語が、見せ物になる。
綺麗な服を着てただ立ってるだけは、
物語ではない。
何をいうかではなく、何をしてきたか、これから何をするか、
そして何をし得たかが、物語だ。
スマートな解決など求めていない。

丸裸のやつらのがっぷり四つからの大敗北と大勝利をみたいのさ。
posted by おおおかとしひこ at 07:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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