物語というのは、人生を丸裸にする。
丸裸になっていない物語は、どこかよそよそしい。
何もあなたが脱げ、ということは言っていない。
映画的なシナリオは三人称である。
あなたの裸には誰も興味が無くて、
主人公という他人の丸裸に興味があるわけだ。
どういうことかというと、
どういう生き方をしているとか、
どういう人生観をしているかとか、
どういう稼業についてて、どういう金を得ていて、
どういう貯金があって、どういう将来を思い描いているか、
ということだ。
どんな哲学があって、どんな弱点があって、どんな恥があって、
ということだ。
あるいは、隠してるところを全部晒せ、
ということだ。
(分かりやすい例は、中居の女性暴行の件での、
プロデューサーが上納したという疑いに関する、
フジテレビの社長会見だ。
「何もかも隠してるだろ」としか思えない。
これじゃあ全然丸裸になってねえよな、って思うわけ。
たとえば上納先はたかがタレントではなく、
もっと大物なんじゃね?って疑惑とかね。
女が口が硬いかどうか試すために、まずはタレントレベルにしてたとかさ。
あなたは脱ぐ立場にいるのではない。
この脱いでない他人を、脱がせる立場にいる)
良いことばかりじゃなくて、
悪いところだらけということも大事だ。
裸がきれいなのはヌードモデルだけである。
ほとんどの人間の裸は汚い。
その汚さごと描くのが物語である。
つまり、その人の丸裸があって、
汚い部分があるとしても、
きれいな部分があるとしても、
全体としては良いのである(ハッピーエンドの場合)、
全体としては悪いのである(バッドエンドの場合)、
という風になっているかだ。
何の欠点のない男が、完璧な事件解決をすることに、
人はあまり興味がない。
それよりも欠点やひどいところや欠損がある人が、
それを込みで汚い汁にまみれて、
それでもなんとか成功するほうが、
見世物としてはおもしろいわけ。
それはきれいごとじゃない、ほんとうの人生の気がするからだ。
アイドルがきれいな世界を歌い、きれいな服を着てメイクをして、
人がうらやむような暮らしをしてて、
それが事件を解決することには、
僕等は興味がない。
もっと汚い、人間の本質を見たいわけ。
ワイドショーはきれいごとだけをやらず、
汚いことだけもやらない。
清濁併せのむことをやっている。
そういうのが見たい、というのが人間の本質だ。
だから、キレイも汚いも含めて、
丸裸になる。
主人公の人生が。
これならちんこ晒したほうがまし、
くらいのレベルで晒される。
もちろん架空の主人公の架空の人生ではあるが、
その裸的な晒され方が、真実を描くレベルであることが、
物語がほんとうらしく感じられるということだ。
その主人公は何かを隠していないか?
嘘をつこうとしていないか?
きれいごとで終わらせようとしていないか?
汚いことも込みで、それでも何をしようとしているか?
大恥をかいているか?
そこに人間的な魅力が出ると思うよ。
丸裸になってないやつに、
感動の余地はないと僕は思う。
汗まみれ、涙まみれ、鼻水まみれになりながら、
その人の出来る全部をたたきつける。
そういう物語が、見せ物になる。
綺麗な服を着てただ立ってるだけは、
物語ではない。
何をいうかではなく、何をしてきたか、これから何をするか、
そして何をし得たかが、物語だ。
スマートな解決など求めていない。
丸裸のやつらのがっぷり四つからの大敗北と大勝利をみたいのさ。
2025年01月18日
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