遊ぼう。何して遊ぶ? 誰と遊ぶ?
実際の遊びでは、誰が来るかが大事で、
何して遊ぶかはほとんど重要ではない。
飲みに行こうぜ、でもカラオケでも、
ディズニーでも、喫茶店行こうぜ、
でも成立する。
一方、
物語はそうではない。
何をして遊ぶかが重要だ。
事件、解決、テーマというストーリーが、
物語の価値である。
だけど、キャスティングというものがある。
みんながよく知ってる人気芸能人たちが集まれば、
それは映画の客寄せパンダになるわけだ。
ここに、「遊びに行く」感覚が加わる。
遊びに行くときに、
メンツが重要で、
何して遊ぶかは重要ではない、
ということになるわけだ。
誰と誰が来るかが重要で、
何して遊ぶかはほとんど重要ではないと。
バラエティで人気芸能人が集まって、
何かしらのゲームに挑むものがあるよね。
それと同じになるわけだ。
初めて絡む芸能人ならば、
座談会(お茶)だけでも成立するだろう。
しかしこなれてきたら、
こんどどっかに遊びに行きましょう的なノリで、
なにかのゲームをするかもしれない。
それを見る側、疑似体験する側からしたら、
何して遊ぶかは興味の1で、
誰が遊ぶかが興味の9なんじゃないか。
誰と誰が仲いいとか、
誰と誰が付き合っているとかが9で、
何してるかは1くらいじゃないか。
なんなら何でもいいや、
付き合ってやることはひとつだから、
誰と誰が、が10でもいいくらいだよね。
ということは、
「何をするか」が重要ではなく、
「誰と誰が集まっているか」しか、
重要でなくなっているわけだ。
ブロッコリーポスターは、
つまりはそういうことになる。
何をするかはどうでもいいと。
なぜそれが生まれるのか?
「誰と誰が集まっているか」
より面白い、
「何をするか」を、
提供できていないからだ。
もし、「何をするか」のほうがおもしろければ、
それがポスターになるわけだ。
巨大鮫が海を泳ぐ女性の下から口を開けるほうが、
ロイシャイダーが出るより面白いってなっているから、
ジョーズのポスターは成立しているわけだ。
つまり、
映画にはストーリーというアトラクション性と、
スター大集合という、
二種類の客の引き方があるということになる。
アトラクション性がスター性に負けていれば、
ブロッコリーにしかならない。
そのアトラクションは、
金をかければ用意できる。
つまり、ブロッコリーは、
金がない映画のときにおこる。
もっとも、
金がないアクラクションでも、
金があるアトラクションなみに、
面白いものができる可能性はある。
アイデア勝負というやつだ。
分かりやすいのは「キューブ」で、
立方体で出来た迷路に閉じ込められた人々の脱出話だが、
その立方体のセットは一つしかなく、
ライティングやアングルで、
それらが無限につながっているように見せていた。
金がなくても、
アイデアでアトラクションはつくれることの、
良い例だと思う。
アトラクションじゃなくてもよい。
普段ないものがそこに存在する、
というのは「物体」でなくてもよい。
事件、黒い闇、おもしろい出来事、
なんでも構わないわけだ。
そこに興味がひけるほどのものを作れていないから、
ブロッコリーに頼らざるを得ないわけだ。
(そして、ブロッコリーが増えた理由は、
まさに企画が枯渇していることの証拠だ)
何して遊ぶ?
我々はそれを考える人である。
誰と遊ぶかは、
プロデューサーが集めてくればいい。
〇〇して遊ぶから、
メンツ集めてよ、
というのが我々の仕掛けというものだ。
〇〇と〇〇を集めたから、
遊ぶ内容考えてよ、
という依頼よりも、
先んじて考えることだ。
ロイシャイダー押さえたから、
巨大鮫との死闘で遊ぼう、
とはならないでしょ。
遊ぶ内容からつくらないと。
いつものメンツに、
今日はニューカマーがいます、とか、
〇〇は今日来れないんだけど、
かわりに〇〇が来ましたーとか、
それだけで楽しくなったりするよね。
パーティーというのはそういうものだ。
我々はパーティーで遊ぶ内容を、
考えるのだ。
パーティーの内容、
つまり酒とクラブ貸し切りでダンスなのか、
ディズニーへ行くのか、
巨大鮫が来るのか、
とある事件を追うのか、
がイコンになる。
そのパーティーに誰が参加するのか、
がメンツになる。
メンツは時の人を集めればよい。
我々はどういうイコンを新しくつくるかを、
やるのだ。
世の中が写真で消費されて久しいので、
新しいビジュアルをつくることは難しい。
だが、まだイコンはつくれるよ。たぶん。
2025年04月25日
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