あると思います。
アイデアを沢山だそう。
最初に思いついたものが一番いい、
という経験則もある。
アイデアを出す前にこういう条件下でアイデアが欲しい、
という前提があり、
その中でうーん、と考えたときが、
全体を一番見渡しているからじゃないかと思う。
「その全体を解決するのは、こういうことかな?」
という着眼点が、
たいてい一番外から見ていることが多い。
だけど、実際にそのアイデアを検討していくと、
足りなかったり、トゥーマッチだったりする。
必ずしも初回が毎回ベストであるわけではないのだ。
「ベストが出るとしたら初回」にすぎないわけ。
となると、初回がベストが出ない場合、
うんうんうなって、
沢山のアイデアを出すことになる。
あーでもない、こーでもないとなるわけだね。
こういう状態のとき、
たいてい色々なことが見えなくなる。
Xという条件下で考えてください
→Aというアイデアはどうだろう?
→いや、Yという条件追加です
→じゃあBというアイデアはどう?
→いや、Zという条件追加です
→じゃあCしかないじゃん
→あと、Pが加わりました
→Dならいけるかな
→Qは禁止してください
→じゃあどうしたらいいんだよ、
最初のAとは似ても似つかぬものになったぞ?
というのはとてもよくあることだ。
このとき、
それらを全部満たすEを思いついたとき、
Eが最もよく見える、
という認知の歪みがあるぞ、
ということである。
全体に、フラットで見たときには、
たいていAのほうがよくて、
Eのほうがよいことは経験的にほとんどない。
Eは諸々の内部条件を満たしてはいるが、
満たしているだけで、
おもしろさが勝っているわけではない。
都合の解、政治的な解であることが多いからだ。
じゃあAを採用すればいいのに、
となると、XYZPQを満たしていないから駄目となる。
YZPQを条件から外せないですか?
とアイデアを出す側から模索するのが、
Aを実行する手段だと思うが、
たいてい依頼主は無理といってくる。
で、条件を満たす、
あまりおもしろくないEに収束することになるわけ。
最初から、XYZPQで考えてください、
と前振れない人たちはとても多い。
ここが複数人で仕事をするときの、
問題点だと思う。
この現象を何と呼ぶべきか、名前がない。
条件後出し現象ととりあえず呼ぼう。
さて、
このようなときに、
新しいほうが良いアイデアである、
と人は思いがち、というのが本題だ。
なぜなら、苦労して生んだのが、
最近だからだ。
昔生んだAの記憶が、遠くになってしまっているからだ。
最近の苦労の方を美化しがち、ということ。
これにはもう一個あって、
「苦労して得たもののほうが価値があるように思ってしまう」
という人の性質があるんだよね。
色々あった末にたどり着いた、苦労の結晶がEであるように、
勘違いしがちなのだ。
おもしろさとは一種のパズルのようなものだ。
数学的解といってもよい。
数学的解を導くのに、
苦労したかどうかは関係ない。
二秒で解いても、三百年かかっても、
解の価値には関係ないのだ。
(でも苦労したほうが価値があると思いたい人たちが、
「何百年も未解決だった問題が解けた」
みたいに言いたいがち)
解の価値は、その鮮やかさで決まる。
いかにスマートに解決しているかで決まる。
そしてそれが、いかに世界に影響するかで決まる。
苦労したかどうかは関係ない。
数学ではそうなのに、
それと似た形のアイデアが、
なぜか根性主義になっているのは、
僕はよくわからない。
できないやつの言い訳なんじゃないかと思っている。
苦労した方が価値がある。
たくさん揉んだほうが良い。
そんなわけない。
刺身は鮮度が勝負だし、シンプルさが勝負でしょ。
アイデアは驚きが重要なのだから、
時間がたてばたつほど鮮度が下がる点で、
刺身に似ていると僕は思う。
だから、
長いことアイデア出しをやりすぎると、
最初に出したものの鮮度が落ちるように感じて、
最後に出したものの方が鮮度があるように見えるんだよね。
いや、たかが数日、数週間、数か月程度で、
アイデアの鮮度は変わらないのだが、
昨日出したものより今日出したもののほうがよく見えてしまうわけさ。
こうした、評価の目が曇った状態で、
客観的評価など出来ているはずがない。
落ち着け、3日離れよ、
ということは、こういうことを言っている。
渦中にいると訳が分からなくなるわけ。
あと、人の心理として、
新しいほうがまだ十分検討していないから、
よく見える、というやつもあるよね。
古女房より新しい女房のほうが欠点を知らないため、
よく見えている状態、ということだ。
あらゆる心理的なバイアスと集団力学が、
新しいほうを採り、
古いほうを棄却させがち、
ということになる。
そして、下手な民主主義が、
一票の価値を同じにするため、
「人の多いほうが正解」になりがちということ。
誰がちゃんと客観的な評価をしているか、などは、
関係がなくなっていくということ。
「今俺(たち)が評価しているEは、
新しいから良く見えているだけじゃないか?」
ってことに気づけるか?
Aがよいと思うなら、
条件をXにまで縮小するか、
Aを超えるFが出るまで、
よしとしないことが、正解じゃないか。
もしFがAを下回ったとしても、
Eよりよいならそれが現状の最善手でしかないということだ。
現状の最善手しか打てない状況を、
僕は幸せとは思えない。
だけどそういうことが現実にはよくある。
こうして、Aは闇に葬られがち。
僕はこれを攻めの仕事ではなく、守りの仕事と呼んでいる。
せいぜいしんがりを守ることしか出来なくなるからだ。
こういうときに、Eは良いと思ってしまう心理に、
気づくことである。
客観的であれ、ということは、
自分の心の動きも客観視せよ、
ということだ。
困っているから新しいアイデアがよく見えているだけだ。
最悪なのは、今まで出たABCDEのいい所をうまく抽出して、
なんとか編集できないのか?
というやつ。
アイデアというのは競合する。
重なりあう部分が成立しないこともある。
つまりちぐはぐになる。
だから、生存していない奇妙なキメラが出来上がる。
(東京オリンピックの開会式は、そのようにしてつくられたと想像する)
切り捨てる勇気がないと、Fには到達しない。
不必要なものは、必要なものがないとわからない。
まったく真っ白な地平をつくって、
何が最低限必要かを整理したら、不必要なものが見えてくる。
じゃあそれを捨てて、
必要な最低限からアイデアを出すとよい。
それがおそらくFへの近道だ。
つまり問題を再定義することからしか、はじまらないのだ。
2025年04月26日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック