2025年04月29日

もう面白い

笑いというのは一種の才能だと思う。

何かを構築して、積み上げ、ついに笑いに至るのではない。
面白いコメディアンというものは、
出てくるだけでおもしろかったりする。
まだネタをやってないのに、
もう面白い、ができていることがある。


僕は志村けんが嫌いだった。

ドリフの頃の志村は大好きだったが、
いかりやの元を離れ、
自由にやってるように見える志村が、
面白くなく見えた。
なんか怖いなとすら思った。

面白い人が持つ、いるだけですでに面白い、
というオーラがなくて、
面白く見せようと努力してる人に見えていた。

漏れ聞こえる話から察するに、
真面目な人だったそうだ。
コントにのめり込み、
かつては否定したはずの、
いかりやのような笑いをつくろうとしていた。

まだ加藤茶のほうが、
すでに面白い人に見える。
ただ加藤も根っから面白い人ではなくて、
ただの愉快でノリのいい人に見える。


すでに面白いのは、一種神に愛された存在だと思う。
アホの坂田、島木譲二みたいな人かな。
関西芸人でいえば阪神巨人は神に愛された存在ではない。

いるだけで面白い。
出てくるだけで面白い。
ネタをやれば面白い。

笑いというのは、僕はそうあるべきだと考えている。

人生おもろいよ、というオーラと、
人生おもろがろうや、というオーラと、
まあおもろいことやりますわ、というオーラ。
失敗してもおもろいからええやん、というオーラ。

笑いが下手な人は、
笑いを分析して、つくろうとしていると思う。
それはまだ、笑いに対して二流なんじゃないか。

天然とかボケとかツッコミとか、
関係ない。
人生おもろいやん、という態度だけが、
人を笑わせることができるのではないか。
だって安心できるもの。

人間あほやで、たいしたことないで、
おもろいだけやん、
ってオーラだけが、人を安心させる気がする。

つまり笑いとは安心である気がする。


悲しいこともそりゃありますよ、人間やし。
辛いこともありますよ、人間やし。
真面目にやらなあかん時もありますよ、人間やし。
けど、存在するだけで、
人はおもろいんやで。

ほんとうの笑いはそういうものだと思っていて、
人はネタよりも、
そこに笑ってしまうんじゃないか。

つまり笑いとは不安からは生まれないと。



ドリフ時代の志村が好きだったのは、
いかりやがいたからだろう。
長さんに対してなんかイタズラしたろ、
という子供のような感じが自由闊達さを生み、
最後はしばかれるんだけど、
それでもいちびったろ、という感じが、
笑えたのだと思う。

笑いを、関東の人はともすれば、
「下に見たときの笑い」と勘違いしている気がする。
何にも考えてなくて、
ただおもろいやん、
という状態こそ人生の最上の状態だというのに。


僕はそこまで笑いの才能はないけれど、
コメディをやるときは、
それを意識している。
これは笑える話なのだと決意したら、
もうおもろいやんけ、から始めることにしている。
最後まで持つかはわからないが、
エネルギーがもてばいけるやろ、
くらいに考えるのが、結局笑えるのだと考えている。
いや、考えてはいけない。
ただおもろいだけになるんやな。


これは、笑いの極意だけではないと僕は考えている。

ホラーなら、もうすでに怖い、であるべきだし、
重たい話なら、もうすでに重たい、であるべきだし、
熱い話なら、もうすでに熱い、であるべきだし、
爽快な話なら、もうすでに爽快、であるべきだと思っている。

カメレオンみたいになんでもできるか、
といわれると全部は無理だけど、
得意な何かはいくつかあるかもしれない。

それを見つけるために、
異なる空気の短編を沢山書くべきだ。
「こいつの書くやついっつもこの空気感やな」
と思われたら負けくらいに考えるべき。

もちろん、唯一無二のそれがあるなら、
アホの坂田みたいにオリジナルになるべきだけど。


コメディアンのくせに、
志村けんみたいになるべきじゃない。
志村はいい人だし好きだけど、
コメディアンとしては愛せない。
技術者としては尊敬できる。

その差を、人は嗅ぎ取ると思う。
posted by おおおかとしひこ at 09:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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