笑いというのは一種の才能だと思う。
何かを構築して、積み上げ、ついに笑いに至るのではない。
面白いコメディアンというものは、
出てくるだけでおもしろかったりする。
まだネタをやってないのに、
もう面白い、ができていることがある。
僕は志村けんが嫌いだった。
ドリフの頃の志村は大好きだったが、
いかりやの元を離れ、
自由にやってるように見える志村が、
面白くなく見えた。
なんか怖いなとすら思った。
面白い人が持つ、いるだけですでに面白い、
というオーラがなくて、
面白く見せようと努力してる人に見えていた。
漏れ聞こえる話から察するに、
真面目な人だったそうだ。
コントにのめり込み、
かつては否定したはずの、
いかりやのような笑いをつくろうとしていた。
まだ加藤茶のほうが、
すでに面白い人に見える。
ただ加藤も根っから面白い人ではなくて、
ただの愉快でノリのいい人に見える。
すでに面白いのは、一種神に愛された存在だと思う。
アホの坂田、島木譲二みたいな人かな。
関西芸人でいえば阪神巨人は神に愛された存在ではない。
いるだけで面白い。
出てくるだけで面白い。
ネタをやれば面白い。
笑いというのは、僕はそうあるべきだと考えている。
人生おもろいよ、というオーラと、
人生おもろがろうや、というオーラと、
まあおもろいことやりますわ、というオーラ。
失敗してもおもろいからええやん、というオーラ。
笑いが下手な人は、
笑いを分析して、つくろうとしていると思う。
それはまだ、笑いに対して二流なんじゃないか。
天然とかボケとかツッコミとか、
関係ない。
人生おもろいやん、という態度だけが、
人を笑わせることができるのではないか。
だって安心できるもの。
人間あほやで、たいしたことないで、
おもろいだけやん、
ってオーラだけが、人を安心させる気がする。
つまり笑いとは安心である気がする。
悲しいこともそりゃありますよ、人間やし。
辛いこともありますよ、人間やし。
真面目にやらなあかん時もありますよ、人間やし。
けど、存在するだけで、
人はおもろいんやで。
ほんとうの笑いはそういうものだと思っていて、
人はネタよりも、
そこに笑ってしまうんじゃないか。
つまり笑いとは不安からは生まれないと。
ドリフ時代の志村が好きだったのは、
いかりやがいたからだろう。
長さんに対してなんかイタズラしたろ、
という子供のような感じが自由闊達さを生み、
最後はしばかれるんだけど、
それでもいちびったろ、という感じが、
笑えたのだと思う。
笑いを、関東の人はともすれば、
「下に見たときの笑い」と勘違いしている気がする。
何にも考えてなくて、
ただおもろいやん、
という状態こそ人生の最上の状態だというのに。
僕はそこまで笑いの才能はないけれど、
コメディをやるときは、
それを意識している。
これは笑える話なのだと決意したら、
もうおもろいやんけ、から始めることにしている。
最後まで持つかはわからないが、
エネルギーがもてばいけるやろ、
くらいに考えるのが、結局笑えるのだと考えている。
いや、考えてはいけない。
ただおもろいだけになるんやな。
これは、笑いの極意だけではないと僕は考えている。
ホラーなら、もうすでに怖い、であるべきだし、
重たい話なら、もうすでに重たい、であるべきだし、
熱い話なら、もうすでに熱い、であるべきだし、
爽快な話なら、もうすでに爽快、であるべきだと思っている。
カメレオンみたいになんでもできるか、
といわれると全部は無理だけど、
得意な何かはいくつかあるかもしれない。
それを見つけるために、
異なる空気の短編を沢山書くべきだ。
「こいつの書くやついっつもこの空気感やな」
と思われたら負けくらいに考えるべき。
もちろん、唯一無二のそれがあるなら、
アホの坂田みたいにオリジナルになるべきだけど。
コメディアンのくせに、
志村けんみたいになるべきじゃない。
志村はいい人だし好きだけど、
コメディアンとしては愛せない。
技術者としては尊敬できる。
その差を、人は嗅ぎ取ると思う。
2025年04月29日
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