2025年04月30日

鑑賞する価値

あなたの作品は鑑賞する価値があるだろうか?
そもそも何を鑑賞するのだろう?


テーマだろうか?
ストーリー展開だろうか?
意外さや驚きだろうか?
盛り上がりだろうか?
わくわくだろうか?
悲しみだろうか?

全部だと思う。
つまりは、「その作品の感情の流れと、最後に残るもの」
である。
一点だけを取り出して価値がある、とは言わない。
「このシーンがいいんだよ」はあるが、
それは全部繋がってよいもののハイライトにすぎない。
そこだけ見てもまあ普通だな、
と思うのは、名作の1シーンだけ取り出して見るとわかる。
「前の流れからだといいんだよ」なんだよね。
つまり、モンタージュ効果が働いているわけ。
名シーンは名シーン単独ではなくて、
あることの前提の上にあることをやるから名シーンになる。

僕は「雨に歌えば」の雨の中で歌うシーンがよく名シーンだと言われたのを見て、
どこがだろう、撮影大変そうなのはわかるし、
歌も踊りも上手だけど、としか思っていなかった。

他の映画にはない上手さ、ということが、
当時のミュージカルと比較してわかったけど、
映画のストーリーの中で名シーンかといわれると、
そうでもないんじゃない、と思う。

つまり、二つの話が混ざっている。
ストーリー上の感情と、
技術的な上手さだ。

技術的な上手さは、
このモチーフをこれに使うか、とか、
今まで見たことのない素晴らしいビジュアルとか、
そういうことになる。
雨の中で踊りながら歌い、
水たまりを効果的に使うなどの遊びを加えた、
「ダンスのPV」としての完成度が、
雨に歌えばにはあったと言える。

しかし、そこに文脈上の感情があまり乗っからないことが、
逆にテレビでそこだけ取り出して放映しやすかったんじゃないかなあ、
と今では思う。
モンタージュ効果がないものは、切り取りやすい、
ということでもある。

さて。

じゃあ、理想はというと、
この二つの融合であるわけだ。
文脈上の感情の流れ、モンタージュ効果と、
そして技術的な、ビジュアル的なうまさが、
融合したもの、ということだ。

単なるセリフ劇、文字上の何かという文脈だけではなく、
映画的表現として、おもしろいかどうかが、
鑑賞の価値があるということだと思う。
そうじゃなかったら、
映画はフィルムを必要とせず、
脚本だけで完成してしまうことになる。

脚本はあくまでベースである。
台本という言葉もあるように、あくまで「台」なのだ。
(「脚」もそうか。ベースの台や机の脚だね)
その上に花開かせるのは、
役者の芝居や撮影や照明や美術や音楽などの、
具体的な何かである。
脚本は、それがやりやすいように書かれる。
そして、ないものは表現できないので、
「雨が降る」と、雨に歌えばのシーンでは書かれることになる。

その要素の絡み合い、どういう風にある感情を表現したか、
が、鑑賞するべき価値だと思う。

つまり、鑑賞するには、
技術的なことが分っていなければならないと、
本来は思うんだよね。
「ここで逆光を使うのかー」とか、
「速いテンポでカッティングしたなー」とか、
「色彩設計が挿し色狙いだね」とか、
「楽器の編成がオーソドックスだから安心する」とか、
「目線が固定しているのが怖くてよい」とか。
そしてそれがたとえば「恐怖にまみれて逃げ出したくなるのを、
ぐっとこらえているのを上手に表現している」
と、感情と絡めて味わえるのが、
「映画を鑑賞する」ということだと思う。

プロになってみると、
「100%思い通り表現できない」ことが分かって来る。
天気を待つほど現場に余裕はないし、
キャストのスケジュールはタイトだし、
予算が足りない場面は多々あるし。
ただ、偶然良い絵が撮れることもあるし、
たまたま場所が見つかることもあるし、
スタッフの工夫で思ったより良いものが出来ることもある。
プラマイでうまく調整していくのが、
現実の映画作りだとわかって来る。

だから、鑑賞者はそこまで理解してから鑑賞してくれ、
と思うのだが、
まあそこまでは事情としては分からないから、
鑑賞者は出来上がったものありきで鑑賞することになるわけだね。

その時に、
どうやっても変わらないものは脚本だ。
つまり、感情の流れと、最後に残るものである。
もちろん、脚本には表現技術的なものが少し書かれることがある。
擬人法とか対比法とか、象徴法とか、言葉による方法とかだ。
それは、脚本が変更されない限り残るし、
そもそも脚本を設計してから映画がつくられる。

だから脚本が大事で、心臓部で、骨格で、
本質であるわけだ。

映画を鑑賞するというのは、
出来上がったすべてを鑑賞して、
その組み合わせの妙を楽しむことではあるが、
そのベースを脚本が担っていることなど、
鑑賞する側は知らなくてよい。
ただ、プロならば、ある程度分解できる、
ということだ。

何を鑑賞するのか。
鑑賞するべき価値は。
鑑賞は批評でもあるから、以前の歴史と比較することにもなる。
音楽や演劇でも、あのプレイは良かった、
とかあるくらいだから、
今回のプレイは良かった、もあるだろう。

あなたは、
鑑賞するべき価値を提供しているか?
何なら出せるか?
どういう鑑賞をイメージしているのか?
それはどういう映画の鑑賞に似ていて、
どこらへんがこれまでなかった観賞価値なんだろう?

出来上がるまで、
それは確定しない。
出来上がったあとに、
じっくりと客観視して、
〇〇はある、〇〇は達成できている、
などのように部分点を積み上げていくことは出来る。
トータルで最後に何が残り、
このような鑑賞体験であった、とまとめることが出来る。
そして、
〇〇な鑑賞体験に、リライトできるかを考えるとよい。

リライトは、鑑賞体験を増幅したり、削ったり、
まとめ直すことのできるタイミングである。
(もちろん狙い通りにリライトできるかは腕の問題だ)

あなたの作品はどのような観賞価値があるのか?
他の鑑賞価値がある作品に対して、
何を提供してくれるのか?
それはどのようなもので、
もっと増幅したり、欠点をカバーしたり、
もっと上を狙えるか?

そこまで客観視して、
ようやくリライトの方針が立つというものだ。
posted by おおおかとしひこ at 08:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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