2025年05月04日

説明のコツ

説明が下手な人がいる。
上手くなろう。

序盤にどういうことが起こっているのか引き込むことや、
中盤や終盤の流れをうまくつくるには、
説明が上手であったり、説明を上手に省略していかないといけない。

だが、そもそも説明を下手な人が、
それらをコントロールできるはずがない。


説明を上手になるためには、
説明をたくさんすることだ。

これは書くことと共通だと思っている。
つまり、たくさんやると上達する、
という単純なことだ。
説明が慣れていない人が説明が上手いはずがない。
上手いとはつまり慣れているということだ。


上手い説明は、エネルギーが少ない。
すっと入る。
流れるようになっている。
疑問が次々に解消する。

それは、慣れていない人ができるはずがない。
慣れているからできるのだ。
説明するべきことを把握したうえで、
「よし、こういう流れの説明にしよう」
と客観的になれているから、
説明ができるのだ。


まず簡単な説明の練習は、
身近にあるもので、完全にわかっているものの説明をすることだ。
なんでそれを説明することになるのか疑問に思ってしまうのならば、
「まったくそれを知らない外国人に説明する」とか、
「宇宙人に日本人の習慣や文化を説明する」
役になったと思えばよい。

たとえば「じゃんけんのルール」を説明してくれ。
これはかつて京都大学の英語の入試に出た問題だ。
英作文せよ、という問題だった。
まず日本語でちゃんと説明できないと、
英作文も出来ないよな。

じゃあまず日本語で作文してくれたまえ。
僕の回答例は以下。
しばらく改行する。










偶然による何かで何かを決定したい場合がある。
欧米ではコイントスで決めたりする文脈で、
日本では「じゃんけん」という、
偶然で決めるゲームがある。

二人のプレイヤーで考えよう。
1/2の確率でどちらかの勝ちを決めたい。
プレイヤーは、石、ハサミ、紙の三つの手を出せる。
(形が決まっていて、手の形で意思表示する)
「じゃんけん、ぽん」の掛け声で、どれかを出す。
石はハサミに勝つ。ハサミは紙に勝つ。紙は石に勝つ。
つまり三者はどれを出しても、
どれかに勝ち、どれかには負ける。
1/3で同じものを出したときは、
「あいこでしょ」と掛け声をかけてもう一回やる。
同じものが永遠に出続けることはないので、
いずれ1/2でどちらかが勝つ仕組みだ。

コイントスに比べて優れているところは、
コインを必要とせずに、手の形だけでできるところ、
3人以上でも可能なところだ。
じゃんけんは日本だけでなく、
アジアでも行われているという調査がある。
石、ハサミ、紙以外の形であるらしい。



こんな感じかな。
導入、何の為のものなのか、
その基本的ルール、
そしてそれが客観的にもたらす意味、
などが説明できてれば、
完璧な回答になるだろうね。

つまり、
「これから説明することの概略をいいます。
あなたとのつながり方をいいます」
「ここから説明本編です」
「説明が終わりました。もう少し広い部分を見て、
客観的に俯瞰しましょう」
という三段階が必要、ということなのだ。


仮にこれを序盤、本編、終盤と呼ぶ。
説明が下手な人は、
本編だけを説明しようとしている。
なぜそれが必要なのか、
この説明を理解したら、どういう事を得られるのか、
という導入の序盤が下手だと、
いきなり説明をしても入ってきてくれないのだ。

あるいは終盤が欠けたら、
説明は分ったとしても、
それが一体我々人生の中にどういう位置づけになるのか、
把握しきれないから、宙ぶらりんのままになってしまうのだ。
今回の説明の例では、
コイントスに比べて便利なところや、
日本だけではなくアジアにもみられる、
というようなことを書いて、
じゃんけんの相対的な位置づけまで言及することで、
ああ、大体このエリア(地理的ではなく、
知識の範囲として)のことなのかー、
と自分の中で位置づけられるようなまとめになっている。

これが出来ないと、説明はできない。

「この説明がなんのためのもので、
それがどのようなものになるのか」
という、
「これから説明部分をインストールするが、
そのことによってどうなるのか」
という俯瞰が得られないと、
人は、
「説明をインストールする苦労」を、
放棄すると思う。
せっかく説明を聞いたけど、
その説明が結局なんだったのかわからないなら、
つまり終盤が微妙ならば、
それが何になるのか、
まったくわからず、説明を忘れてしまうだろう。

この、
「説明を受ける側にスムーズな受けいられ方」
を分っていないと、
何百回説明したって、
人は説明など聞いてくれない、
ということを理解しよう。


ちなみに理系はそうではない。
客観的な科学事実だけあればよく、
余計な尾ひれは必要ない。
だから、数式何行かで偉大な発見になる。
だけど、その価値が分る人にしか分からないので、
だから理系は難しいと言われるのだ。

知識自体が難しいのではなくて、
「それが何になるのか、位置づけが分らないから」
難しいと思われてしまうのだ。


分数が何に使われているかわかれば、
分数を必死でやるだろう。
割り引きや借金の返済、
何かを分けるときの基準、重さと値段の単位でもある。
つまり、数字で行われるすべてのもの、取引、
測定や金のすべてに関係する。

これを知らないと、分数がなぜ大事かを分らず、
説明を理解するエネルギーを集中しないと思う。
だから多くの子供たちは、分数を理解せず、
算数、数学、科学技術、経済学から脱落していく。



ようやく本題である。

物語でも説明はある。
そのように説明しているだろうか?
そうしておかないと、
説明など聞いてくれないぞ。
そして説明し終わっても、それが何の意味があるのか分からないので、
忘れてしまうぞ。

「一回聞いたけど忘れた」なんて説明は、
死ぬほどあるだろう。
それは説明が下手だったのだ。


なので、
世の中にあるすべてのものを、
説明する練習をしてみよう。

単純な問いほど難しい
(空はなぜ青いのか? 生きる意味とはなにか?)
ので、あまり哲学的じゃないやつを説明しよう。

あなたが理解できてることを説明してくれ。
そうすれば、
説明そのものよりも、
なぜこれが必要なのか、
これが一体どんな意味があるのかが、
わかるというものだ。



勘のいい方は、
これが物語自身にも言えるということが分ると思う。
「なぜこの物語を見ようとするのか」
「この物語が一体なんの意味があったのか」
がうまくできていないと、
物語はうまく機能しないというわけだ。
すなわち引き込みとテーマの定着だ。

説明本編は色々やってくれ。
物語本編(中盤)も色々やってくれ。
そして、序盤と終盤も、
うまくやってくれ。

そうしなければ、それがそこに存在する意味がない。


というわけで、
その練習も兼ねて、
あなたは何か身近なものを、
完全に説明してくれたまえ。

コーヒーとは?
せんべいとは?
パスタとは?
自転車とは?
あなたが彼女を好きな理由は?

哲学的にならなくてもよい。
具体的でよい。
あまり掘り下げすぎると分量が増えるから、
適当な量に切り分けるのもあなたの仕事だ。
せんべいを説明するのに、
醤油や塩の作り方からやるのはオーバーキル、
という判断もしなければならない。


さて。
説明とはつまりすべてである。

あなたはあなたの物語を説明するのだから。
posted by おおおかとしひこ at 08:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック