2025年02月14日

落ちてへんやん(「ドライブインマンハッタン」評)

映画を志す者なら、誰もがやってみたいと思うシチュエーション。
「走るタクシーの中の会話劇だけ」ってやつ。

古くはナイトオンザプラネット、コラテラル。
自主映画や短編でも死ぬほど考えられているパターンだと思う。

僕は、いずれも失敗すると考えていて、
例に漏れずこれもイマイチでした。

元は舞台劇として考えられた、
というのに惹かれて期待したんだけどなあ。
「11人の怒れる男」の足の指毛ほどに及ばぬ駄作。

会話はおもしろかったよ。
展開もおもしろかった。テクニックは抜群。
ただそれだけ。
何が足りない?
テーマだと思う。
つまり、落ちてないと思った。

以下ネタバレで。


マイキーってなんやねん。
それがオチ?

クラークでもヴィーなんとかでもない、
マイキーだからなに?


テーマとは、今までやってきた、
これがなんだったのかをわからせることだ。

この話のオチはなんだろう?
「癒されました」?
500ドルチップ払ってありがとう?

運転手は、何度か口説こうとしてたはずだ。
最初の嫁との出会いもタクシーで家まで行ったからだし、
最後握手しようとしたのは、
俺がお前のダディになってやるぜ、
ってことだ。
それを受け入れるってことは、
また遊ばれて、愛されないってことでもある。

妊娠はどうするのか、既婚男と別れるのかは、
何も決着がついてない。
女の言うところの、
「解決法が欲しいんじゃない、ただ話を聞いて共感して欲しいだけ」
ってやつ????
問題がありながら投げっぱなしジャーマンでいいの?



密室会話劇のコツが一つだけあると僕は考えていて、
「その空間よりも広いところの話をすること」
だと思う。

この例もそれで、
オハイオ州とか飛行機とかでスケール感があり、
トレーラーハウスの話があり、
タクシー運転手のほうはスキューバだったりした。
そもそも二人の登場人物なのに、
第三者である既婚者がいて、
どこか遠いところから「今夜会いたい」と連絡してくる。
奥さんの写真の話や子供の踊る動画など、
今ここにないもの(空間)や、ずっと前のこと(時間)を、
だいぶへだてることで、
「車の中の狭い空間」から想像力で飛び出せるわけだ。

一つ一つのエピソードはとても練られていて、
オリジナリティがあったよ。
浴槽の中で縛られて脱出しようとすることや、
1か0かとか、
何対何として話を盛り上げていくとことか、
聞いたことない話をバンバン入れてきて、
上手だなあと思ってみていた。
しかもそれらが全部あとで回収される伏線になってるのもうまい。

雨乞いの踊りからの、
妊娠の告白から、
父と握手した記憶が裏切られるまでの、
一連のクライマックスはすごい。
あのヤスリのような手の感触、と、
視覚聴覚の映画にはない感覚まで使う巧みさ。

なかなかそれは思いつかないなーと。

こうした、
小エピソードたちや、
各エピソードの関係性はものすごく良くできてる。

で?
なのよ。

最後に「これはなんだったのか」が、
まるっと空白なのよ。

まるでラストシーンを決めずに書いてきたが、
思いつかず小笑いでごまかしました、
って感じなのよ。

テイストは違うけど、
「スリービルボード」を思い出す。
あれもクライマックスまではめちゃくちゃおもしろいのに、
ラストあっけなさすぎて急にハズレ引いたってなる。
最後まで決めずに書いたという話を聞き、
オチから書けやボケと思った記憶。


たぶん第一稿は、
握手で終わってたんじゃないかなー。
でもそれだと父の記憶を上書きしちゃうことになるから、
彼を家に招き入れることになって、
やっておしまいになるから、
握手以上の親密な「ほおを触る」に変えたんじゃないかしら。

でもそれでも落ちた気がしないから、
500ドルのチップを付け加えて
(そのために冒頭のアプリ話を振り)、
それでも落ちないからマイキーで笑わせた?のかしら。

彼女がタクシーから降りた時、
明らかに足首が細くて、
「足首が太いっての嘘かよ」って話になると思ったんだけど、
そこもリライトしまくった傷のような気がしたな。


雨乞いのフリから、二週間血が止まらなくて、
雨乞いした理由は「汚れた私をキレイにしたい」
までがフリオチの関係が完璧すぎて、
そのあとに「もっと綺麗な大落ち」を用意できずに、
ラストシーンに迷った形跡があるなと感じた。



さて、
なぜタクシー内密室劇が、
映画になりそうで、やっぱり映画にならないのだろう?

ロードムービーの危険性については以前議論した。
絵が動いてるから展開した気になる、
という、作り手側の錯覚がある。
これは「ドライブマイカー」でもあったことだ。
車が移動して目的地につくと、
なんか行動した気になるのよね。

もう答えは出たようなものだ。
「車の中で座ってるだけで、行動しないから」なのだ。

化粧直ししたり、
植木に水をあげたり、
立ちションしに行ったり、
ガム食べたり、
窓開けたり、
ラインにおっぱい写真あげたりするのは、
小さな行動ではある。

だが、文脈に対しての行動がない。
別れるのか別れないのか。
子供を堕ろすのか産むのか。

今夜は会わないし、もう一生会わない、
と半分あたりで言わせても良かったんじゃないか。
そしたら行動が生じて、
既婚男が動き始めたりなんかして、
事態が二転三転したかもしれないのに。
「お前の家に向かうぞ」とかね。


つまり、密室会話劇って、
持ちネタを全部話したらおしまいで、
行動しないゆえに、
はじめと状況が変わってないのよ。
徹頭徹尾、はじめと状況は同じで、
家に着いただけなのだ。

「11人の怒れる男」は違う。
黒人少年への偏見をとりのぞき、
私たちは間違っていたと逆転するムーブがある。
つまり偏見を変えるという劇的変化がある。

この映画にはそれがなかった。
エピソードの語り口はうまいが、
全体として映画に最も必要なもの、
変化がなかったわけ。

ただ吐き出してすっきりしたわ、にすぎない。
それを変化というにはあまりにも小さすぎる。

気持ちが楽になるからとか、
癒されるとかの、女の戯言を信じてはいけない。
それは映画ではないぞ。
ただのマッサージ機だ。

映画はマッサージ機ではない。


ショーンペンは、明らかに女を口説くつもりで演じている。
話のわかるダディになろうとして演じている。
最後失敗したかー、次行こ、みたいに思って、
演じてるはずだ。
だから、case closedな感覚で最後トランクを閉めて終わったのだと、
ラストカットを解釈できる。

もしその駆け引き感がなければ、
ほんとに年齢の離れたおじさんに話を聞いてもらいました、
おしまい、のクソ映画になっていただろう。
posted by おおおかとしひこ at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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