旧配列は効率が悪い。
だから効率を良くするために新配列を使おう。
これに同意することから、
新配列運動がはじまると思う。
ではそのゴールイメージはどうなってるだろうか。
つまり、効率の良い世界とは、
具体的にどのような世界か。
時間や手間のかかるものを、
省略して、すぐに手間がかからず、
できるようになることが効率化である。
一見これは正しそうな気がする。
だけど全てではない気がする。
たとえば「鬱」という漢字を、
手書きで書ける人はなかなかいないだろう。
これがカナ漢字変換により、
「うつ」と書いて変換すれば「鬱」が、
誰にでも簡単に速く書けるようになった。
さらにqwertyローマ字でUTUと書くよりも、
T位置に手を伸ばさずに済む新配列の方が、
より素早く楽に書けるから、
効率は良くなったといえる。
たとえば薙刀式では、【】をセンターシフトとして、L【L】で、
「うつ」が打てる。UTUより効率化している。
それがほんとうの効率化か、と立ち止まる。
元々、鬱と書きたいときは、
とても憂鬱な気分を表現したいときである。
スラスラ書いていきたいものではない。
ゆっくりと、その暗さを味わうように、
手間のかかる「鬱」を書くべきではないか。
鬱は考えるだけでもうっとうしい概念だから、
書くときもうっとうしいべきではないか。
憂鬱な、鬱陶しい、鬱蒼とした、なんかは、
その概念のゆっくりさに応じた手の速度になるだろう。
これを、カナ漢字変換が台無しにしてるのでは、
と僕は考えている。
画数が多いほど、
漢字は複雑で理解のかかる概念を示す。
手で書くことでそれをわかるように出来ている。
そのプロセスを、
タイピングですっ飛ばしてやしないか。
おそらく、「鬱」という漢字は書けないが、
タイピングでならすぐ打てるという人ばかりだろう。
結果、日本の文章に「鬱」が増えたと僕は思う。
そんなめったやたらに鬱を、使えなかった。
逆に、使えないように、鬱の側から制限をかけていた。
闇に飲み込まれぬように。
鬱という漢字を書ける精神の持ち主だけが、
鬱という深淵に飲み込まれず、対峙できる資格のある人、
なのではないか。
80年代、何もかも軽くなろうという、
軽薄の時代があった。
憂鬱は「ユーウツ」と表記されて、
ちょっとしたメランコリックな気分を表すのによく使われた。
ユーウツなのよね、とか、ユーウツになるんです、
なんて気軽にセリフの中で使われた。
憂鬱のカジュアル化、記号化だ。
(80年代は記号化の時代だった)
それは日本人なら正しく読解できる。
ユーウツのほうが、憂鬱よりも軽々しいことは、
誰でもわかる。
タイピングはそうなっていない。
ユーウツを打つのと、憂鬱を打つのは、
同じくらいの手間になってると思う。
それは、真に効率化したことか?
手間の差が概念の濃さの差になってるようなものを、
等価にしてしまった、誤った効率化ではないか?
薙刀式の運指で気をつけたことがある。
簡単な概念は単打やアルペジオを多く含み、
難しい概念はシフト文字や複雑な運指を含もう、
ということだ。
小学生が習う語はなるべくスッと打てて、
漢字の多い概念は多少かかってもよいと考えていた。
だけど全部できたわけではない。
「ゆううつ」は、【P】LL【L】と、
右薬指4連ではあるものの、
ひらがなで「ゆううつ」で確定するのと変換打数差にしか過ぎない。
なんなら、「ユーウツ」とカタカナ変換するほうが大変。
ざっくりいうと、
言葉の画数に複雑さや高度さは比例していると思う。
車よりも轟のほうが複雑であるようにだ。
日本語はすぐに省略語をつくりたがる。
それは、
素早く、優先的にアクセスしたい概念の、
手間を減らしてカジュアルにしたいからだ。
言ったり書く手間を省くためにそうする。
画数に比例することと同じだと思う。
そうした身体と言語の関係性が、
カナ漢字変換とタイピングを使ってると、
かなり喪失してしまう感覚がある。
「ワープロが普及してから、
みんな書けない漢字を手軽に書くものだから、
日本人の書く文章が漢字だらけになってしまった」
という批判はよく聞く。
わざと難しく見せて、ハッタリを効かせるために、
本来の文章の持つIQよりも高めに見せるために、
ワープロは使われたともいえる。
手間のかかる複雑な概念を、
手で理解しないまま、上滑りして使えるわけだ。
だから大きくいうと、
カナ漢字変換は日本人の実質IQを下げたと思う。
バカを淘汰させず、
ハッタリを推進させ、
勉強しないとバカだと思われる圧を下げ、
勉強することの価値を下げたからだ。
これが合理化だろうか?効率化だろうか?
ほんとうの効率化とはなんだろう?
たしかに、
指の動線を合理化することは、
疲労を軽減して、長く書くことを容易にする。
だが、何を効率的に書くのだろう?
考えることを効率化はしていない。
むしろ、考えるカロリーが必要なところをスポイルしてしまっている。
おそらく、真の効率化とは、
言葉にかかる濃淡と、
同様に手間の濃淡を合わせたもの、ではないか。
簡単な言葉を手間がかからないようにしよう、
は多くの新配列で行われていて、ヨシだと思う。
だけど、複雑な言葉まで手間がかからないのは、
間違いではないか。
最近、カナだけでなく漢直のことも考えてるんだけど、
T-codeの、
ひらがなもカタカナも、全ての漢字も、2打というのに、
とても疑問を持つんだよね。
なぜ重みの違うものを、同じ重みに還元してしまったのか?
ということだ。
おそらく設計者は、文章を書く人間ではなかった。
単なるコード変換問題の解の一つとして、
2ストロークシステムを作っただけではないかと思う。
僕が最初にT-codeを知ったのは10年近く前で、
そのやり方に強烈に違和感があったのだが、
ようやく言語化できた。
「鬱」も「あ」も同じ2打ってことはないやろ、と。
(鬱は多分収録されてなさそうなので、話の例として)
葦手入力のアイデア、
つまりカタカナは漢字の一部を取って生まれたのだから、
カタカナを組み合わせれば逆に漢字を作れる、
というのは大変本質的で素晴らしいと思うのだが、
実用上画数が多過ぎて、手を出せなかった。
簡単な漢字は2打くらいで、複雑なのでも4打くらいに収めたい。
鬱は8打くらいあってもいい(けど覚えきれない)。
この間をつくるのが妥当だと考えている。
そんなうまいこと行くとは思ってないので、
もう少し考える材料があるといいなあ。
手書きで済むなら手書きに戻りたい。
書き終えた原稿の筆跡をAIに読み取らせたいが、
複雑に書き込み倒したものまで解読しきれまい。
だから期待していない。
ことばの難易度と、
手の動きの難易度をピタリと合わせたい。
それ以上は過度な効率化だし、
それ以下は足りてない効率化だ。
カナ漢字変換システムが正しいかも分からないが、
そこを開発できる力がないので、
そこまでタッチできないのが残念だ。
日本語を日本語のようにデジタルで書きたい。
たったそれだけのことに、
日本人はまだ完璧に成功していないと思う。
(そもそもバッテリーとか電源を気にしてる時点で、
かなり損をしている)
2025年02月16日
この記事へのトラックバック
> 言葉の画数に複雑さや高度さは比例している
以前の記事にコメントした、m-codeとk-codeを使ってみたらm-codeは使い心地が良くなくなっていった
https://cs.mkamimura.com/posts/2024/12/%E6%BC%A2%E7%9B%B4%E3%81%AE%E8%87%AA%E4%BD%9C-%E4%BD%BF%E7%94%A8%E3%81%AB%E8%A1%8C%E3%81%8D%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%9F%E6%B5%81%E3%82%8C-%E7%90%86%E7%94%B1.html
のと少し似た側面もあるのかなとふと思いました。
(指の動きの実際の手間というより、感覚の手間(例えば難しい「漢字」を思い浮か思べるよりその読みの「ひらがな」を思い浮かべる方が簡単みたいな)
(かといって何日か漢直も試してみてって気軽には勧めにくいもどかしさ。)
僕は頭の中は漢直なので、
カナ漢字変換を挟んでること自体が面倒だなーと思うことは多いです。
一発で変換がOKになってる限りは、
2ストローク漢直と似た手間だとは思うのですが。
漢直は簡単に試せないのがもどかしいところです。
100字ぐらい覚えて、
2〜3個試すかーってのも難しそうで…