2025年02月17日

【薙刀式】言文一致

さておもしろくなってきた。
そう、思考の話なのだ。
僕は書くように思考していて、話すようには思考していない。
https://x.com/catfist/status/1891333686471393743


言葉が話すことから生まれたのはそうだろう
(目撃者がいないけど)が、
言葉はある時点から、
書く言葉と話す言葉にわかれていった。

だから言文一致運動があったわけだ。
話すように書き、書くように話そうと。

でも僕はまだ、
言文一致は完全にはなされていないと考えている。
「皆様におかれましては」
なんてスピーチは明らかに書く言葉を無理やり発音している。
「キター」はずいぶん声に出すようになったが、
本来は書き言葉だろう。

漫画のセリフは、僕は書き言葉だと思っている。
話し言葉が多いんだろうけど、
それを模した書き言葉であると。
名言や名セリフは、書き言葉だと僕は考える。

漫画の実写化が成功しない理由は、
書き言葉を言ってしまうからだと思っている。

実写で一番難しいのは、
「空に書かれたセリフ」だ。
実写の空を撮ってそこに音を被せても、
漫画のニュアンスにはならないのよね。
それは、書き言葉でしか出せないニュアンスだと思う。

逆に、脚本や戯曲を読むと、
小説のようなセリフのパンチが足りないんよね。

言文一致は建前では正しいんだけど、
微妙なニュアンスでは分離してると僕はとらえている。


で、僕は書き言葉で思考して、
話す時はそれを無理やり音声に乗せている。

もちろん、
話すように思考して書く人がいることもわかっている。

おそらく、ここが僕とラクダエンさんの分水嶺であろう。



話すように書けるシステムは、
モーラが合ってて、スピードがそこそこ出て、
複雑なシフトシステムを必要としないようなものでは、
と想像する。
「鬱」は「うつ」のリズムで良いのだ。

書き言葉での思考を書くシステムは、
複雑なシフトシステムを許容して、
思考の単位がひとつのシークエンスになるような感覚であろうと。
「鬱」はこの画数かかってもかまわんのだ。

もちろん、どっちでも使えるパターンもあるかもだ。



薙刀式の目指す方向は、
書き言葉なんだろうと思う。

もし僕が話し言葉のように考え、書くならば、
第一母語である大阪弁になると思う。
標準語は耳と口ではなく、書き言葉で学んだから、かもしれない。

で、たぶん、話し言葉の大阪弁による思考よりも、
書き言葉の標準語の思考の方が速い。
音の制約を受けないから。

なので、
書くことは標準語でやり、
話すことは大阪弁でやるという、
二重性があると思う。
(標準語と遠い言語帯の地方出身者は、
このように脳を住み分けていると想像)

僕がいつも「しゃべるのは苦手」といっているのは、
「標準語で」しゃべるのは苦手かもしれない。


明日から話すか書くか選んでください、
という極論は、
どちらが「わたし」か、ということだ。
僕の中のわたしは、書き言葉の中にいるっぽい。

むしろ、話す言葉の大阪弁ではできない思考を、
書き言葉の標準語から学んだのが、
わたしという思考っぽいんだよな。
posted by おおおかとしひこ at 14:46| Comment(0) | TrackBack(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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