2025年02月17日

デジタルは人を幸せにしない: おもてなし

ちょいと横浜中華街に行ってきたのだが、
そこのねぶた的な像が、うーむ、と思ったので共有してみる。

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うーん、なんかLEDって安くなるなー。

「きれい」なのかもしれないが、
はっきりしすぎて、そこまで止まりなんよな。
馬脚を表してしまっているというか。

仄かな蝋燭の炎だったら、
きっと足りないかもしれないが、
想像がもっと広がるだろうに、と。

後ろのちょうちんも実はLEDなのだが、
まだタングステンカラーだからマシに見えている。


つまり、我々は何を欲しいのか?
ということだと思う。

たぶん、「人が手間をかけたもの」が欲しいんだよ。

なんか合理的に量産されたくさいものは、
特に欲しくないんだと思う。
量産型よりワンオフが欲しいんだよ。

一方提供側は、コストを安くしたい。
コストを安くされたものは文化ではない。
人はコストダウンの芸術に群がらない。
芸術とはすなわち、
人が壮大に手間をかけたもの、だからだ。


たとえばコマ撮りの映画ってさ、
メイキングを見て「うわー気が遠くなるー」ってなるじゃない。
でもそれが「すごい」ってなるのよ。

ほとんどのメイキング映像は、
「こんなに苦労して撮ってるんですよ」っていうためにある。
それがおもてなしだからだ。

決して「こんなに楽してできたんですよ」と、
コストダウンの比率をメイキングしないだろう。
新技術で「こんなにすごいのができた」
「従来技術ならもっと莫大に費用がかかりとても無理」
というものだ。
「手間が省けてラッキー」とはいわない。

それは、引くほどの手間こそが、
おもてなしだからじゃないか。

同じものを受け取っても、
背後に膨大な手間があるのと、自動的に量産されるものだと、
前者を取ると思う。
それが人対人にあるような気がする。

ライブ音源でCDのを使われるのは嫌で、
音程が外れようが喉の調子が悪かろうが、
生声がいいってやつだ。


「ポンヌフの恋人」というフランス映画がある。
レオスカラックスの傑作の一本なのだが、
セーヌ川にかかるポンヌフ橋に住むホームレスの話なので、
ロケで全篇取るわけにいかない。
どうしたかというとメイキング見ればわかるんだけど、
全部がオープンセットなんよね。
橋の向こうの街並み、ほとんどが書き割りなのよ。
まじかーって思ったね。

本物のポンヌフ橋を、
たとえば一日90分だけ封鎖して、
3ヶ月かけて撮るとかも出来ないこともない。
それはそれで手間としておもてなしになるけれど、
橋の周り一つ全部作っちゃいました、
というおもてなしもすごいわけよ。

ほえーってなるよね。
そのほえーっ、こそが、芸術なんだよ。

漫画で、使い回しのコピペをしたら手抜きってなるじゃん。
全部手書きだからいいわけじゃん。
背景AIってなったら、たぶんおもてなし感は半減するよね。


それを、提供側が理解してるか?
なんだよな。
あなたたちは大切なお客です、
だからおもてなしに膨大な手間をかけております。

そう言ってほしいときに、LEDはなんか安い。
熱を持たないから火事も起こらないよ?
雨降っても安心よ?
でもそういうもんじゃないんよな。

東京ドームは雨が降っても中止にならないが、
甲子園は雨が降れば中止なんだ。
雨降ったから野球がなくて、雨が止んだから野球をやる。
その手間もおもてなしだと思うんだよな。


合理は人情を奪う側面がある。
そして、
映画は合理を楽しむショウではなくて、
人情を楽しむショウである。
posted by おおおかとしひこ at 19:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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