もちろん、動機としての「受け入れられたい」は、
人間の基本的欲望だからあってもよい。
だが、「何もしなくて、受け入れられました」
と願望丸出しのことをやるからメアリースー化するのだ。
それを映画にするには、能動態にするとよい。
能動態といっても、
「受け入れる」わけではない。
誰かを受け入れたからといって、
その人から受け入れられるかは別の話だ。
ミラー性、返報性が人にはあるから、
ある程度真ではあるかもしれないが、
おそらく主人公の願望は、もっと根本的なものであろう。
じゃあどうすればいいか。
「受け入れさせる」をやればよいか。
それは強盗のようなものだ。自然ではない。
もちろん、そういう実験的な面白さを狙う手はなくもない。
主人公がありとあらゆる手段を講じて、
受け入れさせる話は面白いかもしれない。
というか、「口説く」というラブストーリー全般は、
そのようなあの手この手の面白さを利用しているともいえる。
(主人公がクルド人で、ありとあらゆる手段を講じて埼玉県に、
という洒落にならない話は誰もやらんか)
もう少し広範囲に、
「認められたい」というものを考えよう。
どうすれば認めさせれられるか?
実績をあげれば認められやすい。
なんでもよい。学業でもよいし、スポーツでもよいし、
何か業績をあげれてもよい。発明や発見をしてもよい。
なんらかのランキングで上位に入ればよい。
そのことによって、世間が認めるだけでなく、
認めてほしいと思う人に「結果的に」認めてもらう、
というストーリーは普遍であろう。
この時、このストーリーは、
「認めさせる」という動詞の話ではなくなる。
「ランキング上位に入る話」などのように、
別の動詞になるわけだ。
「認めさせる」とは異なる能動態の動詞Aをする話、
になるわけ。
Aがランキング上位に入るために努力する、でもいいし、
テスト勉強でトップを取るために暗記する、でもいいわけだ。
そのAが何になってもよい。
そこが良くできれば、そのストーリーは、
「認めさせる話」ではなく、「Aをする話」として、
認知されるであろう。
「口説く話」ではなくて、
「レースでトップを目指す話」になるかも知れないわけだ。
つまり、「認められる」という当初の目的は、
別の動詞Aに置き換えられて、
Aを達成した結果、認められる、
という間接的な目的達成になるということだ。
真の目的のために、Aという目的を経由するわけだ。
同様に、「受け入れられたい」ストーリーはどうだろう。
これもまったく別のことAを成し遂げ、
結果的に受け入れられた、という話にすれば、
「受け入れる/受け入れさせる/受け入れられる」
という軸から離れることができる。
イケメンコンテストに出場してグランプリを獲った結果、
受け入れられる話でもよいし、
会社のプロジェクトを成功させて、
受け入れられる話でもよいし、
ナンパ100人を達成して受け入れられる話でもよい。
そこは、Aによって変わる。
つまり、「受け入れられる」はあくまで結果に過ぎないようにすると、
まったく別の話をつくったうえで、
受け入れられるという願望を満たすことができる。
メアリースー症候群にかかっている者たちは、
「受け入れる/受け入れられる」だけの軸でしか物事をつくっていない。
主人公が能動態Aで何かを成し遂げた結果、
ということを考えていない。
別軸が見えていないわけだ。
で、さらに問題なのが、
「実は最強なのだが、その力を発揮してなくて、
一回だけ最強の力を発揮して、受け入れられる」
という「簡単に受け入れられる」を選んでしまいがち、
ということだ。
主人公=自分だと思い込んでいると、
苦労をなるべく減らしたいという無意識が出てしまう。
別のAを達成する話を、簡単なルートにしてしまうのだ。
そうでなくて、
必死で困難なAを成し遂げたから、他人は認めてくれたり、
受け入れられたりするのだ。
あなたが他人をどうやって受け入れるか、
考えればわかる。
よっぽど大変なことをして、何回も失敗して、
ついに達成した人を、「認める」のではないだろうか?
アインシュタインが東大入試の数学を解いたからといって、
「お、おう」となるだけで、
認めるとか、受け入れるにはならないだろう。
その人の能力でまあできるやろ、
は、受け入れるにはならないのだ。
その、心のガードを下げるのが、
実績と、感情移入である。
感情移入は、このような事情や感情で、
という同情を引いてもよい。
アインシュタインは実は確率論が苦手で、
だから量子力学を否定したのだが、
それを克服するために、東大入試の確率問題を、
全問正解するまで勉強しなおしたのだ、
と言われると、ちょっと感情移入するよね。
(ぜんぶうそです)
こういう感情移入と達成と努力が、
「他人のストーリー」には必要だということを、
覚えておくとよい。
かならずしも必須ではないが、
これをやると説得力が増すよ、
ということを覚えておくとよい。
一つの型であると。
メアリースーは、
その型に負けるぞ、ということを言おうとしている。
自分の都合だけで誰かに受け入れられたい男。
なにも自分からはせず、ちょろっと能力の範囲で一回だけやって、
受け入れてくださいと言っている男。
「そうか、受け入れてやるぞ、つらかったろう」
なんて思うはずがない。
「受け入れてほしかったら、なんかしてみろ」
と言いたくもなるだろう。
何をすればいいかは分からない。
そのAを考え出すことが、創作である。
2025年02月19日
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