2025年02月19日

「受け入れられたい」は映画ではない

もちろん、動機としての「受け入れられたい」は、
人間の基本的欲望だからあってもよい。
だが、「何もしなくて、受け入れられました」
と願望丸出しのことをやるからメアリースー化するのだ。

それを映画にするには、能動態にするとよい。


能動態といっても、
「受け入れる」わけではない。
誰かを受け入れたからといって、
その人から受け入れられるかは別の話だ。
ミラー性、返報性が人にはあるから、
ある程度真ではあるかもしれないが、
おそらく主人公の願望は、もっと根本的なものであろう。

じゃあどうすればいいか。
「受け入れさせる」をやればよいか。
それは強盗のようなものだ。自然ではない。
もちろん、そういう実験的な面白さを狙う手はなくもない。

主人公がありとあらゆる手段を講じて、
受け入れさせる話は面白いかもしれない。
というか、「口説く」というラブストーリー全般は、
そのようなあの手この手の面白さを利用しているともいえる。

(主人公がクルド人で、ありとあらゆる手段を講じて埼玉県に、
という洒落にならない話は誰もやらんか)


もう少し広範囲に、
「認められたい」というものを考えよう。
どうすれば認めさせれられるか?

実績をあげれば認められやすい。
なんでもよい。学業でもよいし、スポーツでもよいし、
何か業績をあげれてもよい。発明や発見をしてもよい。
なんらかのランキングで上位に入ればよい。
そのことによって、世間が認めるだけでなく、
認めてほしいと思う人に「結果的に」認めてもらう、
というストーリーは普遍であろう。

この時、このストーリーは、
「認めさせる」という動詞の話ではなくなる。
「ランキング上位に入る話」などのように、
別の動詞になるわけだ。
「認めさせる」とは異なる能動態の動詞Aをする話、
になるわけ。
Aがランキング上位に入るために努力する、でもいいし、
テスト勉強でトップを取るために暗記する、でもいいわけだ。
そのAが何になってもよい。

そこが良くできれば、そのストーリーは、
「認めさせる話」ではなく、「Aをする話」として、
認知されるであろう。
「口説く話」ではなくて、
「レースでトップを目指す話」になるかも知れないわけだ。

つまり、「認められる」という当初の目的は、
別の動詞Aに置き換えられて、
Aを達成した結果、認められる、
という間接的な目的達成になるということだ。
真の目的のために、Aという目的を経由するわけだ。

同様に、「受け入れられたい」ストーリーはどうだろう。
これもまったく別のことAを成し遂げ、
結果的に受け入れられた、という話にすれば、
「受け入れる/受け入れさせる/受け入れられる」
という軸から離れることができる。

イケメンコンテストに出場してグランプリを獲った結果、
受け入れられる話でもよいし、
会社のプロジェクトを成功させて、
受け入れられる話でもよいし、
ナンパ100人を達成して受け入れられる話でもよい。
そこは、Aによって変わる。

つまり、「受け入れられる」はあくまで結果に過ぎないようにすると、
まったく別の話をつくったうえで、
受け入れられるという願望を満たすことができる。

メアリースー症候群にかかっている者たちは、
「受け入れる/受け入れられる」だけの軸でしか物事をつくっていない。
主人公が能動態Aで何かを成し遂げた結果、
ということを考えていない。
別軸が見えていないわけだ。


で、さらに問題なのが、
「実は最強なのだが、その力を発揮してなくて、
一回だけ最強の力を発揮して、受け入れられる」
という「簡単に受け入れられる」を選んでしまいがち、
ということだ。

主人公=自分だと思い込んでいると、
苦労をなるべく減らしたいという無意識が出てしまう。
別のAを達成する話を、簡単なルートにしてしまうのだ。

そうでなくて、
必死で困難なAを成し遂げたから、他人は認めてくれたり、
受け入れられたりするのだ。
あなたが他人をどうやって受け入れるか、
考えればわかる。

よっぽど大変なことをして、何回も失敗して、
ついに達成した人を、「認める」のではないだろうか?
アインシュタインが東大入試の数学を解いたからといって、
「お、おう」となるだけで、
認めるとか、受け入れるにはならないだろう。
その人の能力でまあできるやろ、
は、受け入れるにはならないのだ。

その、心のガードを下げるのが、
実績と、感情移入である。
感情移入は、このような事情や感情で、
という同情を引いてもよい。

アインシュタインは実は確率論が苦手で、
だから量子力学を否定したのだが、
それを克服するために、東大入試の確率問題を、
全問正解するまで勉強しなおしたのだ、
と言われると、ちょっと感情移入するよね。
(ぜんぶうそです)

こういう感情移入と達成と努力が、
「他人のストーリー」には必要だということを、
覚えておくとよい。
かならずしも必須ではないが、
これをやると説得力が増すよ、
ということを覚えておくとよい。
一つの型であると。

メアリースーは、
その型に負けるぞ、ということを言おうとしている。

自分の都合だけで誰かに受け入れられたい男。
なにも自分からはせず、ちょろっと能力の範囲で一回だけやって、
受け入れてくださいと言っている男。
「そうか、受け入れてやるぞ、つらかったろう」
なんて思うはずがない。
「受け入れてほしかったら、なんかしてみろ」
と言いたくもなるだろう。

何をすればいいかは分からない。
そのAを考え出すことが、創作である。
posted by おおおかとしひこ at 08:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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