なるべくヘンテコな仲間や敵をつくるには、
どこかでニュートラルな人を入れるとよい。
ボケに対するツッコミと同じで、
ニュートラルな位置が分かってはじめて、
尖っている、変な場所が分るからだ。
さて。そのニュートラルを、主人公にするべきか?
という問題がある。
少年漫画では、比較的ニュートラルな、
尖っていない丸いキャラクターを主人公に据える伝統がある。
周囲の特殊な世界に対して、
読者側のニュートラルな目線を確保しやすいから、
と言えるだろう。
だけどそのことによって、
主人公そのものに魅力がないという問題が発生する。
これは少年漫画の宿痾なのではないかと思う。
ちなみにこれは能以来の伝統ではないかと思っている。
能の面はわざと空白にすることによって、
観客の投影をうながす。
そのとき、面自体に特徴がありすぎると、
投影しにくいという問題が起こるだろう。
だから、投影されるべきものは、
なるべく素直なものがよく、
ニュートラルであるほどノイズがないであろう。
この伝統を意識しているかどうかは知らないが、
少年漫画の主人公はニュートラルな視点で、
読者の普段を投影しやすくなっていると感じる。
ところが、平均的な能力しかないと、
主人公である必要条件、
問題を解決するだけの能力が足りないことになる。
少年漫画の場合は、「誰よりも成長するキャラ」として、
たいていぐんぐん成長していき、最後には最強になる。
これは、少年期の成長の実感と相まって、
少年読者には受け入れられやすい形になっていると言える。
とくに長期連載前提の少年漫画では、
「読者と一緒に成長する」という感覚を得られやすいだろう。
で、映画だ。
2時間しかない。
一緒に成長するには時間が足りない。
だから、「問題解決をできるだけの能力がある人」が、
主人公に選ばれる。
つまり、「平均的な人物は主人公に選ばれない」
ことを覚えておくとよい。
平均的な能力では解決に足りないほどの、
特殊な事件が起こるものだからだ。
もし平均的な人物でも解決できるならば、
それは平凡な事件だということだ。
(おばあさんが道に迷っているとか、
バイトで5万円貯める、とかだ)
映画で起こる事件は特別である。
古今東西で起こった事件よりもさらに奇妙で、
独特の事件が起こるべきだ。
なぜなら、そのほうが面白そうだからだ。
だから、それを解決する主人公は特別な力がある必要がある。
じゃあ、ニュートラルな視点はどこにあるのか。
主人公が特殊だったら、観客の投影は難しくならないのか。
そのときに必要なのが、ワトソン役だ。
ごく普通の視点で、物語を見る、体験する、随伴する人がいると、
ニュートラル、常識ではここ、というのが分りやすくなるわけ。
ワトソン役はレギュラーである必要はない。
そのへんにいるエキストラでもいいわけだ。
爆発事故が起こったとき、
周囲の人はふつうの反応(逃げ惑う)をするだろうが、
主人公だけは爆心地へ走り、連鎖爆発を止める、
などのように、
ニュートラル、常識の範囲の判断は、周囲の人々でも可能である。
エキストラ以上の、端役でもよい。
主人公の行動を止めようとして、「そいつは無茶だ」なんてリアクションする人は、
ニュートラルな視点をもっている、ワトソン役ということだね。
もちろん、ケンシロウの脇にいるバットや、
バットマンの脇にいるロビンのような随伴キャラクターをつくってもよい。
そもそも同じ人がずっとワトソン役をする必要もない。
時にリアクションする人を変えても良い。
また、主人公自身が、
別の人の行動や価値に対して、
「そんなばかな」「それは異常だ」とワトソン役に回っても良い。
あるいは、自分自身を判断しても良い。
「ふつうならこんなことやる奴はいないよな」とね。
こんな風にして、
主人公は平均的ではなく、
「周囲が平均的」なのである。
特別な人を描くには、周囲を平均にすればよい。
そうすると、突出が描けるわけだ。
だけど、主人公はスーパーヒーローであっては面白くない。
どこが弱点があるべきだ。
弱点の存在によって、スーパーヒーローじゃない、
人間的な存在になる。
〇が突出していても、×が苦手、
などの凸凹を、人間として描けばよいわけだ。
主人公が平均的なことが多い少年漫画。
主人公が特殊で凸凹していることが多い映画。
漫画の実写化がうまくいかない理由は、
こういう差異に気付けているか、
ということも影響していると思う。
オレ、フツーの高校生。から始まる映画はほとんどないのだ。
2025年05月20日
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