2025年05月23日

下手な芝居は、別人になろうとする

芝居論。結局脚本論だけど。


あなたは俳優の気持ちがわかるだろうか。
上手下手がわかるだろうか。
本質がわかるだろうか。

俳優はあなたの脚本を演じるのである。
演じ手のことがわからずになぜ楽譜をかけるというのだ。
歌手の気持ちや本質がわからないくせに、
作詞作曲ができる人がいるのだろうか。
僕はいないと思う。
最終出力までわかっていて、
入力側である脚本を理解するべきじゃないかと。


ということで、芝居がうまい下手は何で決まるのか、
という話をする。

芝居が下手な人は、「別人を演じようとする」があると思う。
それはおそらく、
世間でいうところの、
「全く別人になる嘘をつくこと」が、
お芝居だという通念に影響されているのだと思う。

カメレオン俳優がすごいとか、
キムタクは誰を演じてもキムタクになるから下手だとか、
つまりは、
「俳優Aが、まったく別人格Bを演じる」
ということが上手な演技だと思われている。
「地が出てるから別人に見えない」とか、
「学者でもないのに、この演技はリアルな学者に見える」
などのように、
その役のリアリティを演じるのだ、
というのが通念的にある。

僕は、あくまでそれは形態模写に過ぎないと考えている。
形態模写が上手な人は物まねがうまい。

「片足を怪我した人」を演じるとしよう。
重心の使い方とか、松葉づえの使い方とか、
松葉づえを座るときどこに置くかとか、
そういうことを経験しないとわからない体の使い方がある。
あるいは騎手は独特の生活習慣や姿勢を持っていると思う。
鉄道会社の人は指差し確認や、独特の発声がうまいだろう。
そういう形を模写して、
まるで別人のように演じることは、
可能ではある。

だけどまだそれは演技ではない。
「別の人格Bを演じること」が求められている。

だけど、せっかくAなのに、
Bという別人をやろうとするから下手になる。
無理があったり、不足があったり、
つなぎが下手で、ぎくしゃくしたりする。
芝居が安定しないから、
撮影時はよくても、編集でつないでみたらつながっていない、
なんてこともあるだろう。

これは、人格の形態模写をやろうとして、
うまく行ってない証拠である。
つまり、別人Bを真似しようとしているのだ。
上手な物まねの才能があればできると思う。
でも撮影は一か月もかかるわけで、
その間別人の物まねを安定し続けることは難しい。
(それが得意なカメレオン俳優もいるが)


さて、
では上手な人はどうするのか?

本人AのままAをやるのはキムタクのつまらない芝居だ。
スタアならではのやり方だ。スタアAが求められているのだから、
それを提供する、という考え方だ。
しかしそれはAというショウにしかならず、
「ある人Bの物語」にはならないよね。
だからキムタクは何をやってもキムタクだから、
演技には向いていないと酷評されるわけだ。

じゃあ別人Bを演じる嘘をつくのも、
下手なのだ。たいていは一定しない。

芝居のうまい人は、
「本人AのB的な部分を出す」
という芝居の仕方をする。

形態模写でも、
「なぜこの人はこのような形態になっているのか」を理解したうえで、
「自分だったらこのようになるだろう」
というところまで突き詰めるのだ。
そのうえで、客観的になって、
わかりやすいかどうかをチェックするわけだね。


冷たい人格を演じるとしよう。

冷たい別人を形態模写する必要はない。
誰しも冷たい部分はあると思う。
人を人と思わず、ロボットのように思っていたり、
敵のように思っている部分があるだろう。
だから、自分がそいつに対応しているときのような、
塩対応で演じればいいのだ。

相手を馬鹿にしたような侮蔑した態度を演じたければ、
下ネタを敵視するフェミみたいになればいいわけだ。

誰しもの中に、Bという成分がある。
それをうまく出せばいいだけだ。


もしBが理解できなかったら、
脚本家や監督と相談すればよい。
「なぜこの人はこのように言ったり思ったりするのか?」と。
答えがあれば、
なるほどそれならばBという感じになるのはわかるし、
そういう要素が自分にはあるからBを演じることができる、
と思うまで、うまい俳優は自分を観察するものである。

これは、年を取った俳優が、
なぜ演技がうまくなるのか、ということと関係している。
人生を長いことやればやるほど、
Bがたくさん増えるからだね。
CDEFGHI……と、人生経験が増えるから、
想像力がどんどん豊かになっていくわけ。
だから、どんな役が来ても、
「その感情は知っている」と、
自分の中のその成分を抽出すればいいわけだ。
(まあ、単純にすでにやったことのある役と、
似たような役が来ることもあるだろうし)


「役をつかむ」なんて、
俳優はよくいう。
「ああ、こういう感情なのか」と心底理解することだ。

わかる、というよりももっと根源的なことだと思う。
このBという要素は、自分の中にあるぞ、
という「つかむ」だ。
Bだから、こういう言い方になるのだ、
Bだから、こういうことをしようとするのだ、
Bだから、こう言われたらこう返したくなるのだ、
ということをつかむのだ。


さて、本題である。
我々は、
そのようなものを書く。

そして、感情移入とは、
Bに対する共感ではなく、
誰もがBという立場に置かれたら、
同じことを思うし、するだろう、
ということから生まれるのであった。
つまり、
「私はBではないが、Bということはわかる」
というのが感情移入であった。
あなたもBではない。
だがBを書くことはできる。
Bを理解しているからであり、
あなたの中にBという成分があるからだ。

書き手も、演じ手も、受け手も、
全員Bではない。
だけど、Bはわかるし、
この一時Bとして生きることはできる。
それは、Bという成分が自分の中にあるからである。

Bは悪でもいいし、いやなやつでもいいし、
いいやつでもいいし、自堕落なやつでもいいし、
奇麗好きでもいい。
どれが来てもわかるだろう。

つまり、Bは別人ではない。
もう一人の私である。


私は私としてBを書き、
私は私としてBを演じ、
私は私としてBを見て感情移入する。
それがうまい脚本であり、芝居であり、映画である。

私はAであるが、BでもCでもDでもFでもある。
それが人間というものである。
posted by おおおかとしひこ at 07:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック