芝居論。結局脚本論だけど。
あなたは俳優の気持ちがわかるだろうか。
上手下手がわかるだろうか。
本質がわかるだろうか。
俳優はあなたの脚本を演じるのである。
演じ手のことがわからずになぜ楽譜をかけるというのだ。
歌手の気持ちや本質がわからないくせに、
作詞作曲ができる人がいるのだろうか。
僕はいないと思う。
最終出力までわかっていて、
入力側である脚本を理解するべきじゃないかと。
ということで、芝居がうまい下手は何で決まるのか、
という話をする。
芝居が下手な人は、「別人を演じようとする」があると思う。
それはおそらく、
世間でいうところの、
「全く別人になる嘘をつくこと」が、
お芝居だという通念に影響されているのだと思う。
カメレオン俳優がすごいとか、
キムタクは誰を演じてもキムタクになるから下手だとか、
つまりは、
「俳優Aが、まったく別人格Bを演じる」
ということが上手な演技だと思われている。
「地が出てるから別人に見えない」とか、
「学者でもないのに、この演技はリアルな学者に見える」
などのように、
その役のリアリティを演じるのだ、
というのが通念的にある。
僕は、あくまでそれは形態模写に過ぎないと考えている。
形態模写が上手な人は物まねがうまい。
「片足を怪我した人」を演じるとしよう。
重心の使い方とか、松葉づえの使い方とか、
松葉づえを座るときどこに置くかとか、
そういうことを経験しないとわからない体の使い方がある。
あるいは騎手は独特の生活習慣や姿勢を持っていると思う。
鉄道会社の人は指差し確認や、独特の発声がうまいだろう。
そういう形を模写して、
まるで別人のように演じることは、
可能ではある。
だけどまだそれは演技ではない。
「別の人格Bを演じること」が求められている。
だけど、せっかくAなのに、
Bという別人をやろうとするから下手になる。
無理があったり、不足があったり、
つなぎが下手で、ぎくしゃくしたりする。
芝居が安定しないから、
撮影時はよくても、編集でつないでみたらつながっていない、
なんてこともあるだろう。
これは、人格の形態模写をやろうとして、
うまく行ってない証拠である。
つまり、別人Bを真似しようとしているのだ。
上手な物まねの才能があればできると思う。
でも撮影は一か月もかかるわけで、
その間別人の物まねを安定し続けることは難しい。
(それが得意なカメレオン俳優もいるが)
さて、
では上手な人はどうするのか?
本人AのままAをやるのはキムタクのつまらない芝居だ。
スタアならではのやり方だ。スタアAが求められているのだから、
それを提供する、という考え方だ。
しかしそれはAというショウにしかならず、
「ある人Bの物語」にはならないよね。
だからキムタクは何をやってもキムタクだから、
演技には向いていないと酷評されるわけだ。
じゃあ別人Bを演じる嘘をつくのも、
下手なのだ。たいていは一定しない。
芝居のうまい人は、
「本人AのB的な部分を出す」
という芝居の仕方をする。
形態模写でも、
「なぜこの人はこのような形態になっているのか」を理解したうえで、
「自分だったらこのようになるだろう」
というところまで突き詰めるのだ。
そのうえで、客観的になって、
わかりやすいかどうかをチェックするわけだね。
冷たい人格を演じるとしよう。
冷たい別人を形態模写する必要はない。
誰しも冷たい部分はあると思う。
人を人と思わず、ロボットのように思っていたり、
敵のように思っている部分があるだろう。
だから、自分がそいつに対応しているときのような、
塩対応で演じればいいのだ。
相手を馬鹿にしたような侮蔑した態度を演じたければ、
下ネタを敵視するフェミみたいになればいいわけだ。
誰しもの中に、Bという成分がある。
それをうまく出せばいいだけだ。
もしBが理解できなかったら、
脚本家や監督と相談すればよい。
「なぜこの人はこのように言ったり思ったりするのか?」と。
答えがあれば、
なるほどそれならばBという感じになるのはわかるし、
そういう要素が自分にはあるからBを演じることができる、
と思うまで、うまい俳優は自分を観察するものである。
これは、年を取った俳優が、
なぜ演技がうまくなるのか、ということと関係している。
人生を長いことやればやるほど、
Bがたくさん増えるからだね。
CDEFGHI……と、人生経験が増えるから、
想像力がどんどん豊かになっていくわけ。
だから、どんな役が来ても、
「その感情は知っている」と、
自分の中のその成分を抽出すればいいわけだ。
(まあ、単純にすでにやったことのある役と、
似たような役が来ることもあるだろうし)
「役をつかむ」なんて、
俳優はよくいう。
「ああ、こういう感情なのか」と心底理解することだ。
わかる、というよりももっと根源的なことだと思う。
このBという要素は、自分の中にあるぞ、
という「つかむ」だ。
Bだから、こういう言い方になるのだ、
Bだから、こういうことをしようとするのだ、
Bだから、こう言われたらこう返したくなるのだ、
ということをつかむのだ。
さて、本題である。
我々は、
そのようなものを書く。
そして、感情移入とは、
Bに対する共感ではなく、
誰もがBという立場に置かれたら、
同じことを思うし、するだろう、
ということから生まれるのであった。
つまり、
「私はBではないが、Bということはわかる」
というのが感情移入であった。
あなたもBではない。
だがBを書くことはできる。
Bを理解しているからであり、
あなたの中にBという成分があるからだ。
書き手も、演じ手も、受け手も、
全員Bではない。
だけど、Bはわかるし、
この一時Bとして生きることはできる。
それは、Bという成分が自分の中にあるからである。
Bは悪でもいいし、いやなやつでもいいし、
いいやつでもいいし、自堕落なやつでもいいし、
奇麗好きでもいい。
どれが来てもわかるだろう。
つまり、Bは別人ではない。
もう一人の私である。
私は私としてBを書き、
私は私としてBを演じ、
私は私としてBを見て感情移入する。
それがうまい脚本であり、芝居であり、映画である。
私はAであるが、BでもCでもDでもFでもある。
それが人間というものである。
2025年05月23日
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