の、二つがあると僕は思っている。
頭から出る言葉は、考えた末に出る言葉で、
体から出る言葉は、体から染み出る言葉だ。
どう違うかというと、
「見ているものがちがう」と思う。
体から出る言葉は、
今この状況や空気を前提として、
そこから抽出したものであると思う。
デートのときの「たのしいね」とか、表情を見ればわかるものでも、
ついつい体から出た言葉だろう。
それに対して「たのしいね」と返せばいいのだ。
言葉の意味は関係なく、今体から出ているから重要、
という言葉は沢山ある。
本音とか、この文脈ならではとか、真実は、
そうだと僕は思う。
一方、頭から出る言葉は、
今、この文脈を無視して出てくると思う。
別れましょう、前から思ってたんだけど、
とかは頭から出ている。
こことは違う文脈や場所で考えられた言葉が、
頭から出た言葉だと思う。
人間は動物でもあるから、
体から出た言葉のほうが真実味があると思ってしまう。
たしかに科学的事実や文化的文脈では、
頭から出た言葉のほうが正解で正しいのだが、
本音や空気の真実は、
体から出た言葉にあると僕は思うね。
モテない人は、
体から出ている言葉に対して、
頭から出た言葉で返してしまう人なのではないだろうか。
空気読めないなあ、となるからだ。
「このパスタおいしいね」に対して、
「これは小麦粉〇%で、ソースは〇〇で、
炒めてからつくってあるな」などのように、
頭で返す人はモテないわけだ。
体で返す人は、動物的な文脈に対して動物的な文脈で返しているから、
波長が合うわけだ。
逆に、頭で返すべき言葉に対して、動物で返す人も、モテない。
将棋をやっているときに、
勝てないからといって、
「こんなのやっても何にもなんねえよ」とかいう人は無粋になるわけだね。
「このパスタどうやってつくるんだろう?」
に対して、
「おいしいから何も考えられないー」って返す人は、
バカだと思われるわけだね。
津波に遭い、家を流された人に対してインタビューしたときに、
頭で考えたことを延々語られてもおもしろくない。
「家のローンがあと7年残っていて、完済できたはずだけど、
でも地震保険が効くので5年残ったていになります」
とかはどうでもいいんだよ。
ただ「つらい」と一言あればいいんだ。
つまり、
人は、頭から出た言葉と体から出た言葉を、
使い分けて生きている。
今どっちなのかを、書くべきだ。
そして、芝居というのはたいてい体験なので、
体から出た言葉を絞り出したほうが、
セリフとしては生き生きとすることになる。
説明台詞がみんな下手なのは、
体でいうべき言葉なのに、頭から出た言葉にしてしまうからだね。
僕が手書きを勧めて、デジタルを否定するのは、
頭から出た言葉になりがちだからだ。
手書きならばほとんど体から出た言葉の感覚で書ける。
しかしデジタルだと、頭から出た言葉になりがちで、
体から出た言葉を漢字変換を経由して出すことは難しいと思う。
(僕はたまに「おもう」とか「むずかしい」とか、
漢字で書くべきときもひらがなで書くときがある。
それは、体で絞り出した感覚で書いているからだ。
それは漢字よりもゆっくりいうべき言葉で、
シンプルな本音に近いと思う)
頭で考えた言葉は、少なくとも生きたセリフにはならない。
手書きで書くと、そのスピード感が生きることがある。
頭で考えた言葉は、
「それを初めて出せた言葉」になりにくい。
考えてから出した言葉だからね。
整理されているがリアルタイム性がない。
体から出すべき言葉は、
リアルタイムで、今ここから出てきた形になっているものだ。
それをデジタルで再現するよりも、
手書きで書いたほうが手っ取り早いと僕は考えている。
2025年06月02日
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