2025年06月02日

頭から出る言葉と、体から出る言葉

の、二つがあると僕は思っている。


頭から出る言葉は、考えた末に出る言葉で、
体から出る言葉は、体から染み出る言葉だ。
どう違うかというと、
「見ているものがちがう」と思う。

体から出る言葉は、
今この状況や空気を前提として、
そこから抽出したものであると思う。

デートのときの「たのしいね」とか、表情を見ればわかるものでも、
ついつい体から出た言葉だろう。
それに対して「たのしいね」と返せばいいのだ。
言葉の意味は関係なく、今体から出ているから重要、
という言葉は沢山ある。
本音とか、この文脈ならではとか、真実は、
そうだと僕は思う。

一方、頭から出る言葉は、
今、この文脈を無視して出てくると思う。
別れましょう、前から思ってたんだけど、
とかは頭から出ている。
こことは違う文脈や場所で考えられた言葉が、
頭から出た言葉だと思う。


人間は動物でもあるから、
体から出た言葉のほうが真実味があると思ってしまう。
たしかに科学的事実や文化的文脈では、
頭から出た言葉のほうが正解で正しいのだが、
本音や空気の真実は、
体から出た言葉にあると僕は思うね。

モテない人は、
体から出ている言葉に対して、
頭から出た言葉で返してしまう人なのではないだろうか。
空気読めないなあ、となるからだ。

「このパスタおいしいね」に対して、
「これは小麦粉〇%で、ソースは〇〇で、
炒めてからつくってあるな」などのように、
頭で返す人はモテないわけだ。
体で返す人は、動物的な文脈に対して動物的な文脈で返しているから、
波長が合うわけだ。

逆に、頭で返すべき言葉に対して、動物で返す人も、モテない。
将棋をやっているときに、
勝てないからといって、
「こんなのやっても何にもなんねえよ」とかいう人は無粋になるわけだね。
「このパスタどうやってつくるんだろう?」
に対して、
「おいしいから何も考えられないー」って返す人は、
バカだと思われるわけだね。

津波に遭い、家を流された人に対してインタビューしたときに、
頭で考えたことを延々語られてもおもしろくない。
「家のローンがあと7年残っていて、完済できたはずだけど、
でも地震保険が効くので5年残ったていになります」
とかはどうでもいいんだよ。
ただ「つらい」と一言あればいいんだ。

つまり、
人は、頭から出た言葉と体から出た言葉を、
使い分けて生きている。

今どっちなのかを、書くべきだ。
そして、芝居というのはたいてい体験なので、
体から出た言葉を絞り出したほうが、
セリフとしては生き生きとすることになる。

説明台詞がみんな下手なのは、
体でいうべき言葉なのに、頭から出た言葉にしてしまうからだね。


僕が手書きを勧めて、デジタルを否定するのは、
頭から出た言葉になりがちだからだ。
手書きならばほとんど体から出た言葉の感覚で書ける。
しかしデジタルだと、頭から出た言葉になりがちで、
体から出た言葉を漢字変換を経由して出すことは難しいと思う。

(僕はたまに「おもう」とか「むずかしい」とか、
漢字で書くべきときもひらがなで書くときがある。
それは、体で絞り出した感覚で書いているからだ。
それは漢字よりもゆっくりいうべき言葉で、
シンプルな本音に近いと思う)

頭で考えた言葉は、少なくとも生きたセリフにはならない。
手書きで書くと、そのスピード感が生きることがある。

頭で考えた言葉は、
「それを初めて出せた言葉」になりにくい。
考えてから出した言葉だからね。
整理されているがリアルタイム性がない。
体から出すべき言葉は、
リアルタイムで、今ここから出てきた形になっているものだ。
それをデジタルで再現するよりも、
手書きで書いたほうが手っ取り早いと僕は考えている。
posted by おおおかとしひこ at 07:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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