2025年06月03日

1ターンで終わるものはストーリーではない

ストーリーとは何か、をつねに考えているのだが、
今回は「すぐに終わるものはストーリーではない」
という観点から。


「すぐに」とはどれくらいか。1分か、15秒か。
時間ではない。
会話ないしアクションのターンで考えるとしよう。
つまり最低でも二人必要だ。
Aの会話ないしアクションがあり、
Bの会話ないしアクションがある。
これを1ターンと数えるとする。

となると、
Aが何かしてBが何かしただけでは、ストーリーではない。
すぐに終わるからだ。

「おいお茶」「はい」
はストーリーにならない。
「おいお茶」「断る」
もストーリーにはならない。
これは点である。
ひとつの点を描いただけだ。

「好きです」「断る」
もストーリーではない。
「振られた」という状況であり、点である。

「殺す」「死んだ」
もストーリーではない。
「殺した」というひとつの点にすぎない。
何か出来事は起こっているが、まだストーリーではない。

「殺す」「防いだ」も同様だ。
結果が出ているが、まだそれは点である。

2ターンだとどうか。
「好きです」「断る」
「でも好きです」「そうまでいうならちょっと考える」
だと、ストーリーっぽくなったね。
でも終わっていないからストーリーにはならない。
ストーリーは終わって初めてストーリーになる。
「つづく」はストーリーではない。

逆に、2ターンでストーリーを完結させるのは結構難しい。
できるならやってみたまえ。
俳句や短歌は、ストーリーである場合もある。
わずか17文字や31文字でストーリーを描くことをやっていることもある。
(たいていは点である状況を描く。
また文字数が足りないため、すべてを描かず省略してストーリーを想像させるものになっていることが多いと思う)

3、4……ターンあると、ストーリーになるかしら。
多分なる。
きちんと終われればね。


誰かとだべっているときを考えよう。
1〜2ターンで終わる会話はストーリーを話しているのではない。
点の情報交換といったところか。近況報告もあるだろう。
会話というのはそうした情報の交換がほとんどじゃないかな。
今日学校行った、楽しかった、という程度の情報量だ。
社長辞めるんだって、じゃあ会社どうなるんだよ、
〇〇さんになるらしいよ、それは困ったね、くらいだ。

それが、数ターンになると、ストーリーの可能性を帯びる。
だけど、完全にそれが終わらないと終わった感じがしない。
つまりオチである。
オチがないものはストーリーではない。

大坂人はつねにオチをつけた会話に慣れているから、
他の国の人がオチをつけられない意味がよくわからない。
会話はオチが必要だ。すべての会話はオチへのフリになっている。
つまり、大阪人は、日常会話でストーリーを話している。

東京に来て、ストーリー形式になっていない会話に、
いまだに慣れない。
オチいらんのかい、と常に突っ込んでしまう。

〇〇は〇〇なんだよ。へえー、で? いやそれだけ。
それだけで終わるの? それだけだからね。
という会話が多い。
「それだけ」で終わるのは、ストーリーではなくて、
点の情報交換に過ぎないだろう。


オチには二種類ある。
「最初の状態に戻った」ものと、
「最初の状態から別の状態になった」というものだ。

前者は「何も変化していない」もので、
これはストーリーではない。
棚から落ちたものがあったが、元に戻しておきました、
はストーリーではない。
元に戻って世界は維持される、はストーリーではない。
何ターンも苦労した末に、世界は平和が維持されたのだ、
はストーリーではない。
よくできたストーリーは、「世界の平和は維持されたが、
主人公やその他は、まったく異なる変化が生まれたのである」
などのように、
世界は維持されても他の何かが変化したことでストーリーとする場合が多い。

つまり、ストーリーとは、
1ターンよりも長い、
最初の状況から変化したもの、ととらえられる。
1周回って元に戻ったら、意味がないからだ。
つまり、2人以上にある、意味のある変化をした、
1ターンよりも長いものが、
ストーリーの必要条件だということがわかる。


2人以上必要なのはどうしてだろう。
他者との何かがストーリーだから、だと思う。
1人で何かをしてしまうのは、どんなに長くてもストーリーではないと思う。
10年かけて脚本を書きました、というのは行為であるが、
ストーリーではない。
なぜなら、「10年かけて脚本を書きました」と、
1ターンで言えるからだ。

1人でやる行為は、1ターンに省略できる。
その間にいろいろあって、何十のターンになるのかもしれないが、
まとめると〇〇である、のように省略できると、ストーリーから遠ざかる。
波乱万丈の人生ならストーリーになりそうだけど、
他の登場人物が一切出てこなかったら、ストーリーにならないと思う。
それは淡々と〇〇をした、ということにしかならないからだ。


他者が必要である。
他者の存在によって、うまくいかなかったり、うまくいったりする。
共同でやれる範囲が大きくなるが、目的が同じでない以上、妥協した目的になる可能性がある。
それらでもめる可能性がある。
その、他者の存在によって、一人の人生は小さくもなるし、大きくもなる。
その変化は、ストーリーの種になる。

2人以上の、数ターン以上の、オチがあって変化するもの。

これがストーリーの必要条件だ。

数ターン以上あるもので、途中で飽きてしまうものは、
流れを変えると飽きなくなる。
勝利に進むようなペースは、突然のアクシデントや大失敗によって挫折したり、
チャンスを得て大逆転する。
あるいは、同じところでやってなくて、次に別の場所へ移動したりする。
人は飽きるので、それをうまく色を変えて話していくものだ。
ターニングポイントや起伏は、そのためにある。
同じ場所で状況が変わらないものは、進んでいないとみなされるからね。
(ワンシチュエーションが難しい理由はこれだ。
逆にいうと、ワンシチュエーションものは、
状況が進めばよいのだ)

1ターンで終わらないもの。
2人以上で語られる、ないし行動しあうもの。
オチがつくもの。
そして変化するもの。
それがストーリーの条件だと僕は思う。

これらがまとまって、
「こないだ面白い話があってさー」
となるのだと思う。

ストーリーの芽を探そう。
これはネタになるぞと。
ある面白いストーリーが出来そうな何かを探して、
たくさんメモしておこう。
でもそれらは、まだストーリーにならない。
何が必要だろう。
それを延々語ってもストーリーにはならない。
数ターン話せる何か、
他者、オチ、変化。
それらがその1ネタからできるのならいけるかもしれない。
ふつうは、サブのネタを組み合わせる。
ひとつの大ネタ、いくつかのサブネタ、という風にすると、
運動が生じてストーリーになることがある。


思いついたぞ、
でもそれがすぐに終わるぞ、
なら、まだそれはストーリーを思いついたことになっていない。
アイデアは点の形で出てくることが多い。
だからそれらを沢山メモっておくことはいいことだ。
それらが線で結ばれたとき、
数ターンで終わらない何かになりつつあるときに、
ストーリーが生まれる可能性がある。

ネタを思いついたんですよ、ではまだ畑を耕している状態だと思う。
芽吹くのは、それが数ターン続いたときだけだね。

アイデアがストーリーになりそうか、を確かめる、
もっとも簡単な手段がある。
「で?」と聞いてみることだ。
それから何かが出てくるならストーリーになりそうだ。

いや、それだけなんだけど、は、ストーリーにならない。
(無理やり続けるとストーリーになることもある。
最初は点だと思われていたものが、次第に線になっていくことはあり得るからだ)
posted by おおおかとしひこ at 07:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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