自分と他人は違う。
一番違うことはなんだろう。
自意識が見えているか、見えていないか、だと思う。
つまり、
自分は、自分の意識や感情や内面が見える。
その代わり外面は見えない。
他人は、その意識や感情や内心は見えない。
その代わり外面が見えている。
自分は外面が見えず内面が見えていて、
他人は内面が見えず外面が見えている。
これが自分と他人の違いだ。
「自分以外は全員CPUにつくられた何か」
という突拍子もない前提を抜きにすると、
自分も他人も、人間という枠組みに入ることは、
鏡を見れば確認できるだろう。
自分という意識が認識しているだけで、
自分は他人から見たら他人であり、
他人はまたその人の中に自意識がある。
この、自分と他人の構造をよく把握していないと、
わけがわからなくなる。
自分の内面は他人から見えない。
にもかかわらず、何も言わずに分かってほしいと思ってしまう。
自分には見えているこの内面がなぜ理解されないのかと苦しむ。
メアリースーの原因だと思う。
他人の内面は自分から見えない。
だから、外面からおもんぱかるしかない。
表情だろうか、服装や態度や言動からだろうか。
簡単なのは、こちらからボールを投げることだ。
それへの応じ方で内面を推測することができる。
会話というのはそのためにある。
他人の内面は、見えないからといってないわけではない。
あるという前提で他人を見るべきだろう。
自分の外面はないわけではなく、他人から見て、ある。
まあ、だから鏡を見て身だしなみを整えるわけだ。
自分の内面はときに分らなくなる。
常に安定して監視できるとは限らない。
恋したとき、動揺したとき、内面は混乱する。
同様に、他人の内面もときに分らなくなる。
自分の内面と同様の現象が起こることもある。
動揺したり混乱したりするほかに、
嘘をついているとき、内面が見えなかったりする。
物語とは、このような、
内面と外面を使って人を語るものである。
小説の一人称は、主人公の内面を語ることができる。
(他の人物の内面も語れる。その人主観の一人称形式にすればいいからだ)
だから、一人称はより自分と他人の物語になる。
だが、映像は三人称である。自分はいない。
全員、他人の物語だ。
つまり、明らかに見えている内面はない。
外面しかない。
ただ、内面を推し量ることはできる。上のようなことによってだ。
また、嘘や隠し事で、内面を隠すことも偽装することもできる。
嘘や隠し事が物語のスパイスであるのは、
外面と内面の差を利用することができるからだ。
物語の初心者は、
この、一人称と三人称の区別がついていない。
自分と他人の区別もついてないことも多い。
だから、
三人称物語に、一人称と自分を入れ込んで、
ちやほやされるだけのストーリーを書いてしまう。
それは三人称では間違っている。メアリースーである。
ご都合主義とは、一人称=自分が、
楽をして成功したいという願望が、
無意識的に表現されたものだ。
無意識だからたちが悪い。
他人のそれだと、都合よすぎだろ、と突っ込めるものだが、
自分には甘いのが人間というものだ。
あなたには自意識や内面がある。
あなたには外面がある。
私にも内面と外面がある。
全員そうなのが人間だ。
だがしかし、三人称は、外面しか見えていない。
さてどうする。
それを利用していろいろ描くのが、三人称的な物語である。
この工夫を知らないと、自分から見た他人という、
一人称の脚本を書いてしまう誤謬を起こすことがある。
それは間違っているよ、と誰も教えてくれないかもしれない。
もちろん、小説を書く分には好きなようにどうぞ。
それでもご都合主義はご都合すぎんだろ、
と突っ込まれることになるだろうが。
一人称には、叙述トリックというものがある。
「自分の外面は自分には見えていない」ことを利用して、
語り手の自分が、実は(通念上〇〇だと思われるのと違って)××だったのだ、
というどんでんを使えることがある。
有名な2chのコピペだが。
俺、ホモから逃げ切ったら10万円ってビデオに出たことがある
それ凄いね。逃げ切れたの?
3人くらい捕まえたよ
つまり自分は逃げる側だと錯覚させておいて、ホモの側かよ、
という叙述トリックなわけだ。
こうしたことを一人称では使うことが可能だ。
三人称ではこの感覚をつくることは出来ない。
まったく出来ないことはないので、工夫してつくることは不可能ではないけどね。
主観を利用しているから、錯覚をどうつくるか、
ということに苦心することになる。
一人称だったら外面が出てこないことに違和感はないが、
三人称だったらどこかで必要になるからね。
自分と他人は違う。
それは「自分から見て」でしかない。
そもそも人間は全員違うのだ。
自分だけが〇〇、ということはない。みんなそう思っているわけだ。
その辺の自分と他人の意識を自由に行き来できるようになると、
人間への理解が進む。かもしれない。
2025年06月10日
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