2025年06月10日

自分と他人

自分と他人は違う。
一番違うことはなんだろう。
自意識が見えているか、見えていないか、だと思う。


つまり、
自分は、自分の意識や感情や内面が見える。
その代わり外面は見えない。

他人は、その意識や感情や内心は見えない。
その代わり外面が見えている。

自分は外面が見えず内面が見えていて、
他人は内面が見えず外面が見えている。
これが自分と他人の違いだ。

「自分以外は全員CPUにつくられた何か」
という突拍子もない前提を抜きにすると、
自分も他人も、人間という枠組みに入ることは、
鏡を見れば確認できるだろう。

自分という意識が認識しているだけで、
自分は他人から見たら他人であり、
他人はまたその人の中に自意識がある。

この、自分と他人の構造をよく把握していないと、
わけがわからなくなる。

自分の内面は他人から見えない。
にもかかわらず、何も言わずに分かってほしいと思ってしまう。
自分には見えているこの内面がなぜ理解されないのかと苦しむ。
メアリースーの原因だと思う。

他人の内面は自分から見えない。
だから、外面からおもんぱかるしかない。
表情だろうか、服装や態度や言動からだろうか。
簡単なのは、こちらからボールを投げることだ。
それへの応じ方で内面を推測することができる。
会話というのはそのためにある。

他人の内面は、見えないからといってないわけではない。
あるという前提で他人を見るべきだろう。

自分の外面はないわけではなく、他人から見て、ある。
まあ、だから鏡を見て身だしなみを整えるわけだ。

自分の内面はときに分らなくなる。
常に安定して監視できるとは限らない。
恋したとき、動揺したとき、内面は混乱する。

同様に、他人の内面もときに分らなくなる。
自分の内面と同様の現象が起こることもある。
動揺したり混乱したりするほかに、
嘘をついているとき、内面が見えなかったりする。


物語とは、このような、
内面と外面を使って人を語るものである。
小説の一人称は、主人公の内面を語ることができる。
(他の人物の内面も語れる。その人主観の一人称形式にすればいいからだ)
だから、一人称はより自分と他人の物語になる。

だが、映像は三人称である。自分はいない。
全員、他人の物語だ。
つまり、明らかに見えている内面はない。
外面しかない。
ただ、内面を推し量ることはできる。上のようなことによってだ。
また、嘘や隠し事で、内面を隠すことも偽装することもできる。
嘘や隠し事が物語のスパイスであるのは、
外面と内面の差を利用することができるからだ。


物語の初心者は、
この、一人称と三人称の区別がついていない。
自分と他人の区別もついてないことも多い。

だから、
三人称物語に、一人称と自分を入れ込んで、
ちやほやされるだけのストーリーを書いてしまう。
それは三人称では間違っている。メアリースーである。
ご都合主義とは、一人称=自分が、
楽をして成功したいという願望が、
無意識的に表現されたものだ。
無意識だからたちが悪い。
他人のそれだと、都合よすぎだろ、と突っ込めるものだが、
自分には甘いのが人間というものだ。


あなたには自意識や内面がある。
あなたには外面がある。
私にも内面と外面がある。
全員そうなのが人間だ。
だがしかし、三人称は、外面しか見えていない。
さてどうする。
それを利用していろいろ描くのが、三人称的な物語である。

この工夫を知らないと、自分から見た他人という、
一人称の脚本を書いてしまう誤謬を起こすことがある。
それは間違っているよ、と誰も教えてくれないかもしれない。

もちろん、小説を書く分には好きなようにどうぞ。
それでもご都合主義はご都合すぎんだろ、
と突っ込まれることになるだろうが。


一人称には、叙述トリックというものがある。
「自分の外面は自分には見えていない」ことを利用して、
語り手の自分が、実は(通念上〇〇だと思われるのと違って)××だったのだ、
というどんでんを使えることがある。

有名な2chのコピペだが。

俺、ホモから逃げ切ったら10万円ってビデオに出たことがある
それ凄いね。逃げ切れたの?
3人くらい捕まえたよ

つまり自分は逃げる側だと錯覚させておいて、ホモの側かよ、
という叙述トリックなわけだ。

こうしたことを一人称では使うことが可能だ。
三人称ではこの感覚をつくることは出来ない。
まったく出来ないことはないので、工夫してつくることは不可能ではないけどね。
主観を利用しているから、錯覚をどうつくるか、
ということに苦心することになる。
一人称だったら外面が出てこないことに違和感はないが、
三人称だったらどこかで必要になるからね。



自分と他人は違う。
それは「自分から見て」でしかない。
そもそも人間は全員違うのだ。
自分だけが〇〇、ということはない。みんなそう思っているわけだ。
その辺の自分と他人の意識を自由に行き来できるようになると、
人間への理解が進む。かもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 07:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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