2025年06月22日

これ、俺だけが気づいたんじゃね?

と思わせられる人はシナリオがうまい人だ。


予想させることと予想させないことがある。
予想させないもののほうが良いと一般的には思われる。
先が読めたら退屈するからだ。

でもたまに、
あれ、これはこうなるんじゃない?
と予想して、実際にそうなったら、
俺の予想した通りだ!と得意気になるのではないか。

しかも「他の人は気づいてないが、
俺だけが気づいたぞ」と誘導しているようにだ。
俺じゃなきゃ見逃しちゃうね、と観客全員が思っているのが、
理想ということだ。

あるいは、期待に応える、というのもある。
絶対絶望から、ハッピーエンドになるのが心地よいのは、
皆がハッピーエンドを願っているときだ。

そういう大きなものはそうかもしれないが、
もっと小さなものは、
微妙に予測させると誘導になる。
5秒先に「だろ?」があってもいいし、
3シーン前にあった伏線が今解消して、
「だろ? あれは伏線だと思ったんだよ!」と、
得意がらせてもよい。

そのいい塩梅をつくれるのは、
観客がどのようにして見ているかを、
作者が完璧にコントロールしている、
ということになるね。

先がわかるから退屈、というわけじゃない。
たとえば誰かを騙すときに、
騙されることはわかっているのに、
どのようにして騙されてしまうのか、
はらはらしながら見守ることだってある。

告白は成功するんだろうなあ、と予測していても、
やっぱり最後まで気を抜けないこともある。
ハラハラは予測がつかないから面白いわけではない。
予測がついても、むしろ楽しめる場合もある。

じゃあどっちなんだよ、ってなるかもしれないが、
「作者が見事にコントロールしている状態」ならば、
僕はどっちでもいいと思う。
つまり、飽きていないとか、信用が落ちていないことのほうが、
重要だと思う。
この作者なら、絶対楽しませてくれる、
という信用がある限りは、
観客はそのショウや段取りに付き合ってくれるものだ。

ほんの目線ひとつでそれをコントロールできるかもしれないし、
小道具ひとつでコントロールできるかもしれないし、
一言いうだけでコントロールできるかもしれないし、
大げさな段取りを綿密に組んでコントロールするかもしれない。
それは、そのストーリー次第だし、
作者の匙加減次第だと思うよ。

大事なのは、
「今面白いものを見ているし、
次も面白いことが待っていることがわかっているから、
あえて騙されてあげるよ」
という態度に観客を持って行っているか、だと思う。
そうしたら、
「やられたー!」とか「な?こうなったろ?」とか、
なってくれるよ。


その仕掛けはコミュニケーションでもある。
脚本家は、ただストーリーを記録しているだけではない。
観客への届け手として、遊び心がなければならないと思うよ。

揺さぶれない語り手は、語り手としてはフラットすぎるんじゃないかねえ。
(まあ、初心者のうちはまずは素直な語り手を目指しておいて、
慣れてきたら変化球を入れていくのもいいかもしれない。
たとえば慣れてきたときに叙述トリックを入れてみるとか)
posted by おおおかとしひこ at 12:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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