と思わせられる人はシナリオがうまい人だ。
予想させることと予想させないことがある。
予想させないもののほうが良いと一般的には思われる。
先が読めたら退屈するからだ。
でもたまに、
あれ、これはこうなるんじゃない?
と予想して、実際にそうなったら、
俺の予想した通りだ!と得意気になるのではないか。
しかも「他の人は気づいてないが、
俺だけが気づいたぞ」と誘導しているようにだ。
俺じゃなきゃ見逃しちゃうね、と観客全員が思っているのが、
理想ということだ。
あるいは、期待に応える、というのもある。
絶対絶望から、ハッピーエンドになるのが心地よいのは、
皆がハッピーエンドを願っているときだ。
そういう大きなものはそうかもしれないが、
もっと小さなものは、
微妙に予測させると誘導になる。
5秒先に「だろ?」があってもいいし、
3シーン前にあった伏線が今解消して、
「だろ? あれは伏線だと思ったんだよ!」と、
得意がらせてもよい。
そのいい塩梅をつくれるのは、
観客がどのようにして見ているかを、
作者が完璧にコントロールしている、
ということになるね。
先がわかるから退屈、というわけじゃない。
たとえば誰かを騙すときに、
騙されることはわかっているのに、
どのようにして騙されてしまうのか、
はらはらしながら見守ることだってある。
告白は成功するんだろうなあ、と予測していても、
やっぱり最後まで気を抜けないこともある。
ハラハラは予測がつかないから面白いわけではない。
予測がついても、むしろ楽しめる場合もある。
じゃあどっちなんだよ、ってなるかもしれないが、
「作者が見事にコントロールしている状態」ならば、
僕はどっちでもいいと思う。
つまり、飽きていないとか、信用が落ちていないことのほうが、
重要だと思う。
この作者なら、絶対楽しませてくれる、
という信用がある限りは、
観客はそのショウや段取りに付き合ってくれるものだ。
ほんの目線ひとつでそれをコントロールできるかもしれないし、
小道具ひとつでコントロールできるかもしれないし、
一言いうだけでコントロールできるかもしれないし、
大げさな段取りを綿密に組んでコントロールするかもしれない。
それは、そのストーリー次第だし、
作者の匙加減次第だと思うよ。
大事なのは、
「今面白いものを見ているし、
次も面白いことが待っていることがわかっているから、
あえて騙されてあげるよ」
という態度に観客を持って行っているか、だと思う。
そうしたら、
「やられたー!」とか「な?こうなったろ?」とか、
なってくれるよ。
その仕掛けはコミュニケーションでもある。
脚本家は、ただストーリーを記録しているだけではない。
観客への届け手として、遊び心がなければならないと思うよ。
揺さぶれない語り手は、語り手としてはフラットすぎるんじゃないかねえ。
(まあ、初心者のうちはまずは素直な語り手を目指しておいて、
慣れてきたら変化球を入れていくのもいいかもしれない。
たとえば慣れてきたときに叙述トリックを入れてみるとか)
2025年06月22日
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