前半は思い切り汚す、散らす、ぶちまける。
後半はそれらをあとしまつして、
何もなかったかのように片づけていく。
だがしかし、
ひとつだけ残す。
まったく奇麗に、もとに戻ったのだが、
記憶には何かひとつ残る。それがテーマだろうね。
つまり、物語のあとしまつとは、
まったくクリアしてアンドゥすることではない。
ぶちまけられた何かを、
ひとつずつ整理していくことだ。
整理の仕方によって、
最後にひとつの何かに凝縮されるわけだ。
だから、逆に、前半は、
整理しやすく、片付けやすく、
ぶちまけるのである。
自由になんでもぶちまけるのでは、
おそらくうまく畳めないだろう。
無計画に汚し、ぶちまけ、ひっくり返すのは面白い。
だから前半はなんでも書ける。
ただし後半を考えてやらないといけない。
そして片付けを考えて散らかしているのがばれるとつまらないので、
それがばれないように自由にぶちまけているように見えなければならない。
あくまで自由に、なんでもひっくり返しているように見えたものが、
後半見事にたたまれていく様こそが、
理想の後半だと思う。
僕は最後まで書いた回数が、
中級までの実力の目安になると思っている。
ぶちまけただけで畳んだことのないやつは、
ぶちまけ方もわからないわけで。
毎回後半まで書けないやつは、
畳んだことのないものをぶちまけた経験しかないということだ。
それは、一本も書けたことにならない。
ラストから逆算して冒頭に振ることや、
見事に畳めるように、
まるで自由にランダムにぶちまけられたようにすることは、
全部を何回も経験しないと書けないと思う。
後半はあとしまつをする。
前半でぶちまけたことのあとしまつだ。
ミッドポイントのあと、
あとしまつをするべきことが見えてくるだろう。
そのときに、残りかすを一切なく片付けられるだろうか。
そういう意味では、散らかすのも才能がいるわけ。
散らかしてばかりいる前半しか書いたことがないやつは、
もっと短編で短く散らかし、短くあとしまつをつけてみよう。
あとはその規模や伏線の本数を増やせばいいだけだ。
そして、見事にあとしまつを付けたとき、
テーマが残るように印象付けられるか、
ということを何度もやるべきだ。
結局、「語る」ことに慣れなければならない。
前半は概念を壊し、おもしろがり、
後半はその概念はこれのためだったのか、
が鮮やかにわかることが、
プロの語り方ではないだろうか。
2025年06月15日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック