2025年06月16日

別解の探し方

ある展開や結末の別解を考えることは、
リライト過程において大事なことだ。
それがベストの解なのか?を念入りに考えることで、
もっといいものになる可能性がある。

だけど、考え慣れていないと、
なかなか別解は思いつかないものだ。


まず、目の前の原稿が、
「いつものパターン」かどうかを自覚しよう。
自分の得意の範囲でやっていたり、
自分の好きなものを真似していたりするやつだ。
それがもちろん心地よい場合もあるが、
読まれたり、またそれかと思われたりすることがある、
ことを自覚してみるとよい。

ということは、手癖でやってしまっている可能性があるということ。

じゃあ、「そうじゃないやり方」で、
別解を考えたほうがよい。


別解のやり方にはいろいろある。
逆にする、平行やペアにする、
逆順にする、まとめる、ばらす、などだ。
見方の軸足を変えてみたり、見る方向を変えてみたりする。

おかんが理解するレベルだとどうだろう?と考えたり、
子供でもわかるレベルにするとどうなるだろう?と考えたり、
外人が見てもわかる、楽しめるレベルにすると?と考えたりする。
自分が嫌いな人が見たときにも楽しめるとは?と考えたり、
自分が好きな人が見たときにたまらんところはどこか?と考えてもよい。

つまりは、なるべく多角的に見れるとよい。

別のある角度から見たときに、
別解が出る可能性が高い、
というのが僕の経験則だ。

あるいは、その角度は気づいていたが、
そこから解決までたどり着けなかった、
という「惜しい」ものもあるかもしれない。

それでもとにかく気づくことだ。
別の角度から気づかないと、別解のとば口にもならない。

それは、客観的になることでもある。
引いた見方ができるか、ということでもある。
冷静と情熱の間だ。
情熱を冷静に観察して、他人のものとしてみないと、
なかなか別解はでてこないのではないか。


数学と異なり、
物語に最適解はないと思う。
あるかないかも証明できないと思う。
一つの物語に必ずあるかどうかも分からないし、
複数あるかも分からないし、ないかも分からない。
だから、なるべく良い解を考えるのだが、
それが最高であることも証明できない。

だから、なるべく別解を考えて、
その中で一番面白くて満足いくやつを、
最終稿にするしかないんだよね。



何年も前の原稿を読んでみると、
「こうすればいいのに」を沢山発見できると思う。
それは成長したか、客観的になった証拠だと思う。
そんな感じに、第n稿のときにもなれるとベストだよね。

おそらくそういう時は、
まだ「ストーリーを出す」側の感覚になっているんだと思う。
観客として「ストーリーを入れられる」感覚にならないと、
「こうしたほうがより良いのに」まで、
たどり着けないんじゃないかなあ。

posted by おおおかとしひこ at 08:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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