ある展開や結末の別解を考えることは、
リライト過程において大事なことだ。
それがベストの解なのか?を念入りに考えることで、
もっといいものになる可能性がある。
だけど、考え慣れていないと、
なかなか別解は思いつかないものだ。
まず、目の前の原稿が、
「いつものパターン」かどうかを自覚しよう。
自分の得意の範囲でやっていたり、
自分の好きなものを真似していたりするやつだ。
それがもちろん心地よい場合もあるが、
読まれたり、またそれかと思われたりすることがある、
ことを自覚してみるとよい。
ということは、手癖でやってしまっている可能性があるということ。
じゃあ、「そうじゃないやり方」で、
別解を考えたほうがよい。
別解のやり方にはいろいろある。
逆にする、平行やペアにする、
逆順にする、まとめる、ばらす、などだ。
見方の軸足を変えてみたり、見る方向を変えてみたりする。
おかんが理解するレベルだとどうだろう?と考えたり、
子供でもわかるレベルにするとどうなるだろう?と考えたり、
外人が見てもわかる、楽しめるレベルにすると?と考えたりする。
自分が嫌いな人が見たときにも楽しめるとは?と考えたり、
自分が好きな人が見たときにたまらんところはどこか?と考えてもよい。
つまりは、なるべく多角的に見れるとよい。
別のある角度から見たときに、
別解が出る可能性が高い、
というのが僕の経験則だ。
あるいは、その角度は気づいていたが、
そこから解決までたどり着けなかった、
という「惜しい」ものもあるかもしれない。
それでもとにかく気づくことだ。
別の角度から気づかないと、別解のとば口にもならない。
それは、客観的になることでもある。
引いた見方ができるか、ということでもある。
冷静と情熱の間だ。
情熱を冷静に観察して、他人のものとしてみないと、
なかなか別解はでてこないのではないか。
数学と異なり、
物語に最適解はないと思う。
あるかないかも証明できないと思う。
一つの物語に必ずあるかどうかも分からないし、
複数あるかも分からないし、ないかも分からない。
だから、なるべく良い解を考えるのだが、
それが最高であることも証明できない。
だから、なるべく別解を考えて、
その中で一番面白くて満足いくやつを、
最終稿にするしかないんだよね。
何年も前の原稿を読んでみると、
「こうすればいいのに」を沢山発見できると思う。
それは成長したか、客観的になった証拠だと思う。
そんな感じに、第n稿のときにもなれるとベストだよね。
おそらくそういう時は、
まだ「ストーリーを出す」側の感覚になっているんだと思う。
観客として「ストーリーを入れられる」感覚にならないと、
「こうしたほうがより良いのに」まで、
たどり着けないんじゃないかなあ。
2025年06月16日
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