2025年06月17日

書けば映画になる

後輩と話しているときに、
「大岡さんはなんでも書けば映画になる
(しかし自分は書いても映画っぽくならずに、
だらだらとした時間の書き連ねにしかならない)」
という話を聞いた。

うむ。動けば剣、みたいな達人の領域に入りかかっている、
ように後輩からは見えているようだ。
だけど、自分的には全然そうじゃない。


だけど、感覚としてはわかるのね。
次にこうしたほうがいい気がするとか、
あれが足りないからつくっておいたほうがいいとか。

料理に慣れた人が、
あらかじめ仕込みはこうしておくべきだとか、
塩加減はこれくらいがいいとか、
こうなったからには、こうするとよくなるだろうとか、
付け合わせはあれが足りないからもってこようとか、
「完全」になるためには何が必要か、
あるいは何が不要か、
という判断が出来て、
自然に完全な料理へ勝手に完成していく、
みたいなのが、理想だと思う。

たまにそういう感覚になる。
理屈じゃなくて、
名作だとここでこういうことをするよねとか、
ここでこういうことはしないよねとか。
自然と線を結んでいくと、
映画的な線になっていくことがある。

だけど、毎回ではない。
まだ僕は達人じゃなくて、
出来るときがある、という程度だと思う。
しかも一発でできるわけじゃなくて、
何回も油絵のように重ね塗りをして、
ようやくそれを導ける、みたいなことだ。
ああ、あれは間違っていたのだ、とあとでわかる、
みたいなことだ。
(よかったのに捨ててしまっている愚を犯していない証拠はない)


それはどうやったら得られる感覚なのか、
を考えると、
莫大にアウトプットしろ、としかいいようがない。

インプットしている人はたくさんいるだろう。
でもそこどまりなんだよね。

たとえば、
本を読まない人が書く文章って、
相当あほな言葉遣いをするし、
思考が浅いじゃない?

本を読むけど、書きなれていない人の文章は、
言葉を知って、思考しているのはわかるんだけど、
いまいち定型表現を知らないし、
うまく思考にはまってこない感じがある。

本を読み、たくさん書いている人だけの、
「こなれた文章」というものがあるよね。

そういう風に、
脚本も書き慣れるしかないと思う。

もちろん、本を読んでいる人の文章のように、
たくさん名作映画は見ているべきだ。
料理のうまい人は、それだけうまいものを食っていないとできない。

つまり、ざっくりいうと、
沢山見てきた、そしてやってきた、から、
書けるというだけのことだ。

もちろん、書き残したものは、
莫大な失敗を取り除いて、成功したものだけを残した。

ということは、
要するに、何億回も失敗しました、
ということだ。

段ボール一箱分、企画を書いて一人前、
という格言がコピーライター業界にある。
それだけ失敗をしていると、
勘が養われる。
こっちは失敗、こっちは成功、という匂いがわかるようになる。

そうなったときに、
自動的に、本能的に、
体が正解を書いていけるようになると思う。


なにせ無意識で書いている。
無意識をコントロールはできないから、
無意識にしみこませていくしかない。
それって、数稽古しかないんだよ。

達人が無意識に動いて、
動けば剣の状態になるには、
それだけ失敗して成功してきた、ということだ。
99の失敗と1のひらめきってエジソンも言っている。
1本書きたいなら、99本失敗することだ。
posted by おおおかとしひこ at 18:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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