2025年06月27日

期待させて、回収する

ストーリーとは何か、事件と解決のことである。

だけど、それを「話すとき」の作法として、
「期待させて、回収する」と気持ちよい、
と思う。


つまり、同じストーリーでも、
話し方によって、伝わり方が変わるということだ。

話し方が上手な人の話は面白くて飽きない。
一方、放し方が下手な人の話は伝わりにくく、
何が面白いのか分からず、退屈になる。
同じ話の内容だとしても、話し方によって、
相手の反応は異なると思う。


で、上手な話し方とはなんぞや、と考えていると、
上手に期待させて、
上手に回収する、が上げられると思うわけだ。

「これはとてつもない悲劇です」から始まるならば、
とても悲惨な話があり、
どうしてそんなことが起こったのだ、と怒り、
わが身に起こったらどうしよう、と戦慄することが、
期待されるわけだ。

「めちゃくちゃ面白い話があるんだけど」から始まるならば、
爆笑して、人のおかしさに思い至り、
愛すべき間抜けさや人のうかつさを考える機会になることを、
期待する。

「すげえ話があるんだけど」ってなったら、
どんだけ常軌を逸したものか期待する。


で、もしその期待に応えた内容ではないのなら、
期待外れで「つまらなかった」となる。
期待通りになったら「おもしろかった」になる。

つまり、
話の内容の方向性とは関係がない。
「期待でどれだけ誘引して、その期待にどれだけこたえられたか」しか、
この場合関係ない、ということだ。

つまり、
話の上手な人は、その規模に関係なく、
ちょうどよく期待させて、
上手にその期待に応えているだけなのだ。

「今から微妙な話をします」と言って誘引は出来ないだろう。
でも「世にも奇妙な微妙さってあるんですよ」となれば、
「どんな微妙なことがあるんだろう」となるじゃない?

内容が微妙だから話す価値がないとは限らない。
それをどう期待させるかだけで、
期待にこたえさえすれば、
それは「たしかに微妙だ、おもしろい」となるのだよ。

「微妙だ」というフリに対して、「微妙ー」というリアクションがあれば、
それは満足したことになるわけ。
(問題は、微妙なことが面白いぞ、としっかり誘引できているか、につきる)


脚本の教科書に、
開始5分程度で、それがどんなジャンルかを示せ、というのがある。
それはそういうことだ。
「何を期待させるのか」を示すのだ。

コメディならば笑って人間の面白みを感じること、
勧善懲悪なら悪を倒してすっきりすること、
ミステリーならこの謎を解くことを期待すること、
恋愛ならばこの恋の成就。

どういうジャンルかが分かれば、
「何を満足するべきか」が事前にわかる。
これを期待させるのが上手い人は、
結果を示したときに、
「ああ、満足した」となるわけ。


これは、事件と解決といった、センタークエスチョンとは、
異なる次元の話をしている。

クライマックスで事件が解決して、
後日談が描かれたとしても、
それをあまりダラダラやらないのが吉とされる。
その理由は、
テーマに落ちる落ちないというよりは、
「冒頭の期待に応えたところで話は終了」となるからだ。

その期待に応えたのがクライマックスだとしたら、
もはやそのあとにやるべきことはないのだ。
もちろん、感情移入をしているから、
多少の後日談は知りたくなるものだが、
それをあまり長々とやっていると、
クライマックスの余韻がなくなり、
満足したのにまだやってるのか、
となってしまうわけだ。


男はセックスが目的だから、射精したら満足して背中を向けて寝るが、
女は愛が目的なのだから、射精したとしてもその後のイチャイチャがないと愛ではない、
というすれ違いは、
「最初にしている期待と、満足の差分」について、
両者に差があるわけだね。

男が愛を期待させて背中を向けて寝るのは、
話が下手なやつということなのだ。
女がセックスだけを期待しているときに、
男が愛を語り出しても長い後日談になってしまうということだ。


何を期待させるのか、それをうまく誘引できるのか。
そのへんによくあるものでは期待できないが、
そのへんになさすぎるものでも期待が難しい。
だから、
「よくあるやつですが、ちょっと違うんですよ」が、
一番いい期待の方法だと思う。



正確な予告編は、これが正しいと思っている。

大体のジャンルを示したうえで、
そのへんにあるやつとこう違うんですよ、
という期待感をあおることが、
予告編のするべきことだと思う。

もちろん、それが重大なネタバレになってはいけない、
という高度な期待と満足の駆け引きが、
予告編にはある。
予告編に予算をちゃんとかけない宣伝部は、
期待と満足の考え方を理解していないと思う。
(人気芸能人が何分でているかが満足になってしまっては、
もはや映画ではないというものだ)

「いけちゃんとぼく」でいえば、
「おばけ?が見える面白子供映画なんですが(大まかなジャンル)、
成長していくと、実はいけちゃんには正体があったことが分かるんです……!(特別な部分)」
ぐらいがちょうどよいと思っている。
これが出来なかった角川映画宣伝部は、
猛省したほうがいいと今でも思っている。
もちろん二度とやるつもりはないが。



むしろそれは、
ストーリーの外の枠組みを超えた、
「この2時間をどのように楽しませるか」というプレゼンだと思う。
内容は事件から解決までで、
それでなんらかの意味や価値が読み取れるものなのだが、
それをどのように期待させて、
どのように満足させるかは、
ストーリーと関係なく、
ストーリーテラーの語り口で決まると思うわけ。

それがぶれているものは、
失敗すると思う。


何を期待すればいいんだっけ。
単純なことだ。
悪人が倒される。恋が叶う。
無茶なことに挑んで成功させる。
犯人が捕まる。
なんでもよい。
それが「おもしろそうじゃん」と思えるように、
誘導できていれば、完璧な誘引だと思う。

あとはそれをちゃんとやれば、
満足という結果になるよ。

たいていは、
期待させていない、
期待させたがそれに応えられていない(竜頭蛇尾)、
結果と異なる期待をさせている(羊頭狗肉)、
オチが満足できない、
などの齟齬がある。
posted by おおおかとしひこ at 12:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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