2025年06月29日

妄想は誰にでもできる

妄想の話、つづき。
だけどプロの妄想は、お金を取れる妄想だったりする。
何が違うのだろう?


妄想のレベルが違うのだろうか?
誰にもできない、この人しかできない妄想だから、
金になるのだろうか?
そういう場合もある。
オリジナリティとはそういうことで、
誰も似たことが出来ないから、その人の妄想だけが金になるのだ。

これを頂の高さにたとえよう。
誰にもたどり着けない妄想の最高峰がプロの妄想であると。


まったく別の観点がある。
妄想がすぎて、その人しか興奮できない妄想は、
金にならない。
誰でも興奮できる妄想が、金になる。

つまり、すそ野の広い妄想である。

単にレベルの低い妄想だと誰も手を出さないが、
プロの広い妄想というのは、
「誰でもその一定のレベルの高い妄想を受け取れる」
ものをいう。
つまり、感情移入と同じである。
「私はその人ではないが、
その人と同じ立場になったら、私もそうするだろう」
というのが感情移入のはじまりであった。

ということは、
その妄想は私の範疇にはなかったが、
このようにしてその妄想に入り込めたら、
私にもその妄想が楽しいということが分かった、
という導きの役割があるものが、
正しいプロの妄想ということだ。

つまり、プロには二種類いる。

頂の高さだけで突っ走る孤独な芸術家と、
誰にでも広くこの世界を味合わせることができる、
大衆の木鐸だ。


映画というのは、マスを対象とするから、
後者であるべきだと僕はいつも思う。
世界でこの人しかこの妄想が理解できない、
というようなものであっても、
たった一人その芸術を億で買えば、
芸術家は生きていける。

しかし映画は2000円の入場料か、
レンタルか配信かセルという、
マスのリーチによるものでしか収入がない。
だから、
「誰にでも味わえる妄想」または、
「誰もが思わなかった妄想だけど、
順にその世界に入らせていけば、共有できる妄想」
が望ましい。

つまり、プロとはすぐれた調教家だといえるのだ。


ぶっちゃけエロで考えると分かりやすくて、
誰もわからない領域の特殊性癖をつくる人が芸術家で、
まあ一度は誰もが妄想したことのある、
レベルの低い妄想が素人で、
ちょっとだけレベルが高いエロだから大衆がオオッとなるのが、
プロの妄想。

さらに理想は、
「世の中にこんなエロがありえたのか」と、
ほとんどの人を導けるものが、
正しいプロの妄想だ。


つまり、
こんな新しいものを発見したぞ!
ただ表現しても君ら理解できないだろ?
だからチュートリアルをきちんとしていくぞ!
手順を踏めば、
これが新しいエロだと理解できるだろ?
となっているのが、
ほんとうに正しいプロの妄想ということだ。

もちろん、エロだけではないので、
ストーリー、キャラクター、シチュエーション、展開、
テーマ、ターニングポイントなど、
あらゆる要素で、
ストーリーの面白さを発明するべきであって、
そしてその面白さを誘導しなければならないのだ。

つまり、
新しい遊びを考えた者は、
それに大衆を引き込む方法も同時に考えないといけない、
ということだ。


阿呆な宣伝部に任せていると、
この大衆を新しい遊びに引き込む方法を考え出すことはできない。

だから、作者自らが、
これがこの新しい遊びに引き込む、
キャッチーでベストな方法だ、
を示せる必要があるのが、
現代的な現状だと思う。


伝統的によくあるのは、本道Aではなくて、
別のキャッチーなものBで人目を引くことだ。
マトリックスをテーマや世界の構造ではなくて、
銃弾を避ける「新しい映像」で象徴するようなものだ。
こういうBを用意するのも、
「導く方法」だと僕は思っている。

つまり、宣伝部ごと、上手な嘘つきになるべきなのに、
阿呆な宣伝部は素直にAは理解されない、
と本質だけを考えてしまうわけ。
Aは理解できないから、とっつきやすいBで客引きしましょう、
どうせ見ればAのすばらしさはわかりますよ、
という風に割り切れないんだよね。

(角川宣伝部の場合は顕著だったね。
「いけちゃんとぼく」の本質は大人のラブストーリーだから、
大人のラブストーリーとして売りましょう!という誤謬がまかり通っていた。
阿呆の塗り重ねとして、
「余命一か月の花嫁」は一か月で死ぬとネタバレしているのだから、
いけちゃんも〇〇〇〇だとネタバレしてもオーケーです!
という強弁があった。
救えない阿呆によって、僕のデビュー戦はさんざんだったよ。
直前の東宝宣伝部の、
「風魔の小次郎」のキャッチコピーに「学園忍者アクション」を選んだセンスとの差よ)



どうやってその妄想に導くか?
そのすばらしい妄想の頂へ持ち込むには、
どのように引き込むとよいか?

プロの仕事はそこがよくできている。
妄想そのものの強度も強いし、
万人への開かれ方も素晴らしい。

だってフィクションって、全部嘘なんだぜ?
その嘘にどうやって引き込むかなんだぜ?
その引き込みルートを考えずに、
上手な嘘つきとは言えないと思うね。
posted by おおおかとしひこ at 13:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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