それ以前とそれ以後で、まったく人々の認識が変わること。
僕は近年の発明の素晴らしいものとして良く上げるのが、
「セックスしないと出られない部屋」だ。
なんの関係もないカップルをそこに入れても面白くない。
微妙な関係のカップルをそこに入れることで、
合体するまでの何かを描く面白さを発明したわけだ。
この発明以前は、
どうやってセックスするかはリアル文脈前提で、
「そんなんでセックスせんやろ」という突っ込みを受けざるを得なかったと思う。
だけどこの部屋の発明によって、
「しょせんはファンタジーなんだから、
楽しめる場だけをつくればよいのだ」
という考え方に変わっていったように思う。
逆に、この部屋がないときは、
どうやって妄想を成立させていたのだろう、
というくらいだ。
発明とはそういうものだろう。
電気が発明される以前は、
夜に生活はなかった。
セックスするか寝るしかなかったはずだ。
今電気がない生活は想像すらできないだろうね。
スマホもネットも電化製品全部ないんだぜ。
もうどうやっていいかわかんないよね。
車がない生活を想像することも難しい。
学生時代を考えればまあできなくもないだろうが、
仕事をするうえで車が使えないとなったら、
急に難しくなるのではないか?
たとえ事務仕事だとしても、
文房具を運んでくるのは車だよね。
それが使えないとなったら、手で運ぶしかないよね。
アマゾンも成立しない。
スーパーの流通は全部止まる。
どんでん返しが初めて発明されたときの、
人々の驚きは相当なものだったろう。
何度も何度もその刺激を求めたに違いない。
今でもその欲求は人々にある。
新しいどんでん返しを見せろ、とね。
「前世の記憶」というのが発明されたときの、
ブームは物凄かったよね。
80年代から90年代にはそういうものがたくさんあった。
「〇〇は〇〇の生まれ変わり」とか沢山あった。
「ぼくの地球を守って」がピークだと思うが、
ほかに死ぬほどそういうパターンはあった。
「能力バトル」もそうだ。
忍術とか武術とか、
なんらかの体系があるものを創作するのが普通だったのに、
スタンドとか念とか、
もうまったく体系が前例にないものを使ってバトルするのは、
ひとつの発明だったろう。
昔は必殺技に根拠があったものだが、
今はもうそういう能力だということになってしまって、
根拠なくその力を使うことになっている。
それ以前の体系ものになると、
調べものが大変だし、矛盾がやってくるし、
無茶できないという枷が大きいことに気づく。
民明書房も発明だ。
適当につくったものを、まさかの適当な根拠でもっともらしくする嘘。
解説フォーマットを傘に着た叙述トリックだ。
これがないときに戻って、まっすぐ解説しても、
民明書房を疑われるに違いない。
いろんな発明がある。
歴史に残るというのは、
年表に乗るだけではない。
こんなの考えもしなかった、とあとからパクられて、
もはや定番のものになるくらいのものを、
発明するべきだ。
「爆弾の赤か白かのコードを切ると止まるが、
間違えると爆発する」というやつも、
映画「ジャガーノート」で発明されて以降、
定番になったんだぜ。
それ以前にはそういう時限サスペンスはなかったんだよ。
本編が終わる前からエンディングの前奏が始まり、
決め台詞とともにトメ絵になって、
♪アスファルトタイヤを切りつけながら 暗闇走り抜ける
と歌が始まる、シティハンターの発明だってある。
なんでもいい。
歴史に残る発明をしてみよう。
それは「発明をするぞ」と思ってもできなくて、
「新しいパターンを常に考えよう」としているうちに、
いつの間にかできているものだと思う。
人々が気づいていないだけで、
新しい発明はどんどん生まれてはいると思う。
ただ、真似したいほどのものじゃなかったということかもしれない。
つまり新しいパターンを常に考えて実践すれば、
どれかが受けて定着する。
新作は常に実験作である。
2025年06月28日
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