2025年06月28日

歴史に残るとはどういうことか

それ以前とそれ以後で、まったく人々の認識が変わること。


僕は近年の発明の素晴らしいものとして良く上げるのが、
「セックスしないと出られない部屋」だ。
なんの関係もないカップルをそこに入れても面白くない。
微妙な関係のカップルをそこに入れることで、
合体するまでの何かを描く面白さを発明したわけだ。

この発明以前は、
どうやってセックスするかはリアル文脈前提で、
「そんなんでセックスせんやろ」という突っ込みを受けざるを得なかったと思う。
だけどこの部屋の発明によって、
「しょせんはファンタジーなんだから、
楽しめる場だけをつくればよいのだ」
という考え方に変わっていったように思う。

逆に、この部屋がないときは、
どうやって妄想を成立させていたのだろう、
というくらいだ。


発明とはそういうものだろう。
電気が発明される以前は、
夜に生活はなかった。
セックスするか寝るしかなかったはずだ。

今電気がない生活は想像すらできないだろうね。
スマホもネットも電化製品全部ないんだぜ。
もうどうやっていいかわかんないよね。

車がない生活を想像することも難しい。
学生時代を考えればまあできなくもないだろうが、
仕事をするうえで車が使えないとなったら、
急に難しくなるのではないか?

たとえ事務仕事だとしても、
文房具を運んでくるのは車だよね。
それが使えないとなったら、手で運ぶしかないよね。
アマゾンも成立しない。
スーパーの流通は全部止まる。

どんでん返しが初めて発明されたときの、
人々の驚きは相当なものだったろう。
何度も何度もその刺激を求めたに違いない。
今でもその欲求は人々にある。
新しいどんでん返しを見せろ、とね。

「前世の記憶」というのが発明されたときの、
ブームは物凄かったよね。
80年代から90年代にはそういうものがたくさんあった。
「〇〇は〇〇の生まれ変わり」とか沢山あった。
「ぼくの地球を守って」がピークだと思うが、
ほかに死ぬほどそういうパターンはあった。

「能力バトル」もそうだ。
忍術とか武術とか、
なんらかの体系があるものを創作するのが普通だったのに、
スタンドとか念とか、
もうまったく体系が前例にないものを使ってバトルするのは、
ひとつの発明だったろう。

昔は必殺技に根拠があったものだが、
今はもうそういう能力だということになってしまって、
根拠なくその力を使うことになっている。
それ以前の体系ものになると、
調べものが大変だし、矛盾がやってくるし、
無茶できないという枷が大きいことに気づく。

民明書房も発明だ。
適当につくったものを、まさかの適当な根拠でもっともらしくする嘘。
解説フォーマットを傘に着た叙述トリックだ。

これがないときに戻って、まっすぐ解説しても、
民明書房を疑われるに違いない。


いろんな発明がある。
歴史に残るというのは、
年表に乗るだけではない。
こんなの考えもしなかった、とあとからパクられて、
もはや定番のものになるくらいのものを、
発明するべきだ。

「爆弾の赤か白かのコードを切ると止まるが、
間違えると爆発する」というやつも、
映画「ジャガーノート」で発明されて以降、
定番になったんだぜ。
それ以前にはそういう時限サスペンスはなかったんだよ。

本編が終わる前からエンディングの前奏が始まり、
決め台詞とともにトメ絵になって、
♪アスファルトタイヤを切りつけながら 暗闇走り抜ける
と歌が始まる、シティハンターの発明だってある。


なんでもいい。
歴史に残る発明をしてみよう。

それは「発明をするぞ」と思ってもできなくて、
「新しいパターンを常に考えよう」としているうちに、
いつの間にかできているものだと思う。

人々が気づいていないだけで、
新しい発明はどんどん生まれてはいると思う。
ただ、真似したいほどのものじゃなかったということかもしれない。

つまり新しいパターンを常に考えて実践すれば、
どれかが受けて定着する。
新作は常に実験作である。
posted by おおおかとしひこ at 07:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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