やたらセリフが難解であった。
何かを言おうとして途中で止めてるとか、
暗示的なことを言おうとしてるとか。
これ、知ってるよ。
中身のない時に、ありげなふりをするときの技法だ。
高校生の小論文でもよく使われる手だろ。
結局、
この物語全体を通じて、
語りたいことなど最初からなかったのでは?
と想像する。
何かあればそれが伏線となるはずだからだ。
僕はすでにTV版のZを見終えているから、
その結末に関する伏線が引かれているだろうと身構えていたが、
難解なセリフのうち、
最後と接続できるようなものはなにもなく、
ただただ事態が単純なのを誤魔化すために、
いわくありげなことでフリをする、
煙幕にしか見えなかった。
じゃあその煙幕を剥ぎ取ると、
見えてくるものは何もなさだ。
ずっと気になっていたことがある。
カミーユ/ファと、アムロ/フラウ、
カミーユ/フォウと、アムロ/ララァ、
カミーユ/シロッコと、アムロ/シャア。
これらの関係が相似形なんだよね。
新しい物語を語るのなら、
構造ごと変えるべきだ。
なのにこの構造
(幼なじみヒロイン、心を通じ合わせたヒロイン、ライバル)
を変えなかったのは、
「同工異曲」としか言いようがない。
つまり、同じ構造のものをもう一回やって、
内臓部分をちょいちょい変えます、
ということでしかなかったのでは?
ということだ。
ダカールの演説(新訳版ではカットされたという話も聞いた)だって、
ガルマの死のギレンの演説みたいなもんでしょ。
ランバラルが欠けていたり、
リュウやスレッガーといった先輩キャラが欠けていたり、
マチルダ役がエマ、レコアなどに分散していたりしてたけど、
ほとんどはファーストの構造だと感じる。
だから、やることがなくて、
キャラを使い潰すしかなかったのではないか?
ドラマが殺すしかないのだもの。
皆殺しのトミノは、殺すことでしかドラマを作れない説があるが、
僕らが期待したガンダムのつづきは、
理解し合えない人々が、
ニュータイプの力によって、
理解し合える可能性を構築していくことだ。
それがララァとアムロが見た世界なんじゃないのかい?
だから、序盤は「分かり合えない人々」を描くのはいいよ。
テーマへの作りなのであるから、ちゃんと身構える。
でもさ、そんなこと、全然してないのよね。
僕らはオールドタイプとニュータイプの話を見たい。
けれどやってることは、
内輪揉めしかなくて、
地球の重力に魂を引かれた人と、そうじゃない人の戦闘?
(戦争ではない)だ。
オールドタイプ同士の内輪揉めの中に、
若干名忍びのようなニュータイプが紛れてるだけ。
同工異曲で、同工異曲を悟られたくないから、
煙幕が沢山撒かれたのではないか?
意味ありげなセリフ、
新キャラ(とくに女)祭り、同窓会祭り、
そしてそれらのすりつぶし。
ラストなんて困ってカミーユまですりつぶした。
この新訳版は、それを反省して、
もう一つのあり得た世界線のZをつくるもののはずだ。
だがこの1からは、
結論につながるための前提が描かれていないように思えた。
むしろ、
ファーストの、コロニー落としのような、
「絶対この悪は止めるべき」という悪魔の所業が、
スパイカメラでの映像しかなく、
コロニーにウイルス兵器という、
「目に見えない」方法論だったため、
「前提」がとても見えてこない。
で、やっぱり描きたい物語なんてなかったんじゃない?
といぶかることになる。
もし問題が「地球の重力に魂を引かれること」なのであれば、
「重力から魂が解放されること」がゴールになる。
でもそうはなってないよね?
だって「重力に魂を引かれること」が、
具体的にはどういうことなのかわからなかったからだ。
精々パワハラですぐ殴るくらいしかなくないか?
少なくとも、
見識が狭く、内輪の組織での関係しか見てなくて、
人類全体を見ていないなどを、
描くべきだったのでは?
そうすればゴールは、
人類全体の調和になるはずだ。
狭い組織は解散して、ジオン残党へ共闘する、
でもよかったのでは?
つまり、ティターンズとエウーゴと連邦が合併して、
対アクシズへ共闘戦線を張り、
スペースノイドも地球生まれもなく、
ゼダンの門を落とすことをゴールにすれば、
前提とゴールは一致した。
そうそう、アバオアクーがなぜゼダンの門とよばれたのかは知らないが、
最終バトルの舞台をファーストと同じにしたことや、
コロニー→大気圏突入→ジャブロー→空へ上がる→アバオアクー
という流れも同工異曲なのが、
繰り返しになっててつまらんのよね。
あるいは、
ニュータイプにも悪いやつといいやつがいるとして、
なんだオールドタイプと一緒じゃないかと、
いいニュータイプといいオールドタイプが、
悪いニュータイプと悪いオールドタイプに、
立ち向かってもよかった。
そうすればシロッコをラスボスにできて、
ハマーンはシャアと共闘できたはずだ。
強化人間は基本悪いニュータイプだけど、
フォウのようにいいニュータイプに目覚めるやつがいてもよかった。
ガンダムは、単純な善悪を捨てたところが新しかったが、
相対的な視点だけで話を作ると、
何をやりたいのかの軸が通らないことに、
Zは気づいていなかったと思う。
誰の視点から見ても面白い話であれば問題なかったが、
どれもこれも設定出オチで死んでばかりだ。
殺し合うのは人類だけど、
それを異なる方向へ導ける可能性がニュータイプだったはずだ。
オカルト超能力者ではない、
「認識の拡大した者」がニュータイプだろう?
じゃあ、人類という大きな認識を、できるはずなのに。
そしたら排除すべきは、悪いニュータイプだろうに。
シロッコをラスボスにするならば、
このようなロジックの組み立てがあってしかるべきだ。
だけどそんなものもなかった。
じゃあ、なにがしたかったんだ?
僕には同窓会に見えた。
もちろん、バンダイは、
「もういっちょ一儲け」しか考えてなかったろう。
新モビルスーツが、宇宙に地球に飛び交い、
バトルすれば文句なかろう。
だけど我々が見たいのは、
「それを通じて、表現されているドラマやテーマ」だ。
すなわちMSバトルはモチーフで、
その道具で描いた絵の意味が、テーマだ。
戦争の虚しさでもヒロイズムでもいいよ。
ファーストで描かれた、
「新しい人類の目覚め」から直結する「次の話」であればね。
その、「次の話」の核がない。
つづく、つづく、次すごいことがおきます、
まだつづく、実はこの先すごいんです、じゃあ、
単なる詐欺じゃん。
じゃあ、何をやりたいんだ?
今は放映当時ではない。
それを新訳にすると決意してやったんだろ?
それは、なんだ?
少なくとも、今回の1からは読み取れなかった。
2、3は見ざるを得ない。
フォウが死んだらあとは余韻になっちゃうかなー。
2025年03月20日
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