2025年03月21日

映画に自分を書いてはいけない(新訳Z-3「機動戦士Zガンダム 星の鼓動は愛」評2)

僕は常々、主人公を他人にせよ、自分に重ね合わせるな、
と警告している。
独白体の使える一人称形式の小説などと異なり、
三人称は「他人の目から見た形」しか使えないからだ。
「自分から見た周囲と自分」を描くと、
三人称では失敗する。

Zガンダムの物語的失敗は、
それが原因なのではないかと、俯瞰して思う。
ネタバレで。


富野はZを作りたくなかったらしい。
だけど引き受けてしまった。
何故かはわからない。
社会的現象を起こしたガンダムは、
それそのもので完結しているが、
大人達の事情によってリブートすることになった。

そうして富野は、自分のことと重ね合わせれば、
書けると勘違いしたのではないだろうか?

カミーユが冒頭から大人に尋問されている。
反抗的だ。反抗的なだけで決定打がない。
大人達の理不尽な、よくわからない理屈に巻き込まれて、
ずっとカミーユは「ついて行かされる」ことになる。
自分が動かせるのはガンダムだけ。
あとは何もできない。
自分だけがニュータイプで、
他のやつはみんなオールドタイプだ。
ニュータイプの素養がある大人達としか会話できず、
オールドタイプの大人と意思を通じ合わせる術をカミーユは持たない。

だから、女に溺れる。
溺れるというより、甘えている。
カミーユから女を口説いたことはない。
みんな向こうからやってくるだけ。
ラスト、シロッコに突撃する時、
誰が現れたか?
フォウ、ロザミィ、エマ、レコア。
彼女達は死んだ。甘えたい母は幻想で、一時的なものだった。

あと、カツ、サラ。
おそらく富野は「後輩を育ててくれ」とも頼まれたのではないか?
いっぱしの監督になると、こういうことを大人達からよく言われる。
育てる力と、表現する作家性は連動しない。
僕はたぶん競合するとすら思っている。
育てながら戦うことはできない。
育てることは安心できる環境下でシミュレーションさせることであり、
戦場はそんな場所ではないからだ。
ある程度教えたら、あとはお前の力で戦線を突破せよ、
失敗したら死ぬぞ、くらいしかできることはない。

永野護が結果三度もめて降板したそうだ。
彼を育てられなかったことは、
富野の責任にもされただろう。
カツが死ぬことは、だから永野護をはじめとする、
後輩を育てられなかったことの死でもあった。

カミーユより若い世代が、
カツとサラしかいない。
貧弱な後輩しかいなかったのだろう。
その下はもっとヒヨッコしかいなくて、
層の薄さに嘆いていたかもしれない。

なぜ同工異曲でしかなかったのか。
同じ構造ばかりだ。
なぜアムロはあんなに派手に登場して、
宇宙にあがらなかったのか。
今の自分で勝負したかったからかな。
栄光を汚したくなかったからかもしれない。

なぜシャアは前に出なかったのか。
前に出るのを怯えた、富野自身の投影では。
もう自分はオールドタイプである、
次の若者に任せたいのに、
まだ出なければならないのか、という億劫があったのでは。

で、最後のシロッコへの特攻。
そう、特攻なんだよね。
決してファーストのアムロvsシャアのような、
対立する男達の話ではない。
謎の敵を、死んだ女達(妄想)の力を借りて、
怨念のように、体当たりするだけなんだよ。

TV版でカミーユが廃人になったのもうなづける。
「俺は万策力尽きた」が言いたかったのだ。
(それでもファに抱かれたいという願望よ)

それを新訳で、
「健やかな物語にしたい」と言い放ったそうだ。
自分の不健康さの反映を、
せめてカミーユ生存エンドで、
救いたかったのだと思う。

ラストカット、抱き合うファの股間から入っている。
明らかに挿入を意識している。
なんなら「母に抱かれている」くらいの勢いだ。
さらにZの影に隠されていた太陽が顔を出す。
鬱の寛解の暗示であろう。

大人達はみんな死んじゃえ、コロニーレーザーで。
ニュータイプという自分のシャドウも死んじゃえ、
女達(幻想)に守られた自分が、
策も何もない子供みたいな体当たりで。
特攻後、ウェーブライダーパーツから脱衣したZが、
グイッと力を込めて生きてる表現は、
変形MSすら嫌だったという「枷を外した」ことの象徴だ。

大人達の政治が、物語的に全然面白くなかった。

カミーユにとって参加する資格がなく、
ただ状況に流されていた。
カミーユやアーガマに目的地などなく、
ただただ上からの命令によって、
大きな作戦に参加しろ、ミッションはこれだと、
次々に与えられるだけの駒であった。
シャアは一瞬参加したけれど、
交渉役としてプライドが高くてできなかった。
これも大人富野の限界だろう。

そして、連邦は腐敗して修正ばかり要求していた。
どう考えても富野から見た大人達だろう。

カミーユはニュータイプ最強かもしれない。
それは俺ツエーと同じで、
「本当の僕はこんなに強いのに」が言いたいからだ。
コロニーレーザーで焼き払うのは、
そうした大人達だ。

その根本で、
シロッコとシャアとハマーンがバトルするのは、
象徴的であったろう。
上の大人達を殲滅するための道具の、
足元を壊してまで、
「自分の考える大人」たちを戦わせたかったのだが、
うまくいかなかった。
その前の劇場での演説大会も、
「所詮はみせかけ」の無意識が出ていた。
スポットライトを浴びても、本音が言えず、
建前で銃口を突きつけるしかできず、
そしてその場にカミーユ(自分)がいるのだが、
何もできなかったのだ。

だから、コロニーレーザーでの大人三人のバトルに、
カミーユは参加していない。
何もできないからだ。



完全に、メアリースーである。

なぜZの大人達の政治は、難しくてよくわからないのか?
なぜカッコつけたセリフばかりで、暗示的なのか?
そしてその政治の動静に興味が持てないのか?
富野から見た、大人達の政治だからだ。

一方、カツとサラとヤザンしか、
富野の自由になるキャラがいなかったのだよな。

多分富野は、会社員経験がない。
あれば、「そうはいってもうまく立ち回る中間管理職」を描けるはずだ。
ブライトやヘンケン、テッドウォン、シャアは、
そのような役割を期待されていたはずなのに。
でも彼らは何もできないし、
自分から何もしないし、
ただ戦術の駒になってるだけだった。
うまく断ったり、嘘ついたりして、メンバーを守ったりもしてないし、
上と交渉してメンバーを有利な状況に持ってゆくこともしていない。
富野にそう教えた会社員先輩はいなかったのだろう。

だから自分の書ける話は、
大人達がゴニョゴニョやってるときに、
見つからないようにできるカツとサラか、
大人達の意向を無視して海賊行為をするヤザンしか、
なかったのだと思う。



ああ、この無意識に気づきたくなかった。
脚本について死ぬほど反省してきたから、
ぜんぶわかる。
「その無意識はやってはいけない。
いかに本当だろうが、それを三人称で書くと、
メアリースーにしかならない」ことが。

Zは、政治状況がよくわからない。
客観的に見ればヘタクソな脚本だなーと思うのだが、
メアリースー的には「よくわからない政治状況」というメタなんだから、
わからないを表現してたんだな。


「重力に魂を引かれた大人達」は、
それを言いたいだけで、
彼らを重力から解き放ちたいわけではなくて、
コロニーレーザーで焼き払いたいだけだったんだよ。

ファーストでは、コロニーレーザーはギレンの使った悪魔の兵器だ。
なんでそれを今回エウーゴ側が使うのか、
意味がわからなかった。
イデオンみたいに、みんな死んじゃえがやりたかっただけなんだな。


かなり似た構造の漫画を知っている。
ファイアパンチだ。
ラスト、宇宙で母なる女の胸に抱かれるのもそっくりだ。
最強の力を持ちながら何もできなかったのもそっくりだ。

人の無意識は、たぶん同じ形をしてるのだ。
自己表現する側はカタルシスがあるが、
感情移入を伴っていない観客達は、
気持ち悪くてしょうがない。



1985年にテレビの前で正座して見始めたが、
あのガンダムの「つづき」とはとても思えず、
よくわからんけどずっと「修正してやる!」、
「うわああああ!(覚醒)」しかやってないアニメの、
何が面白いのかわからなかった。
可能性のあるキャラクターたちが、
どんどん使い潰されてることの意味もわからなかった。

今ならわかるよ。
Zガンダムは、失敗作だ。
その原因もすべてわかる。

フォウ生存ルートで、ファと三角関係で取り合う、
くらいやってみたらどうだ。新訳なんだからいいだろ。
それができなかったってことは、
できない程度の脚本力だったんだよ。





もう一つ書きたいことがある。
ブラバツキーの神智学についてだ。

ニュータイプという覚醒が人類を救う、
という考え方は富野のオリジナルではない。
単に当時の流行の神智学(ニューエイジ)であった。

ニュータイプはSWのフォースに影響を受けたらしいが、
そのフォースがモロに神智学なんだよね。
影響下の作品はたとえば幻魔大戦の超能力で、
これも「覚醒した新人類が、超能力で人類をハルマゲドンから救う」
というおおまかなプロットであった。
(元ネタのGAという宗教団体が、
ほぼブラバツキーと同じことを話している)


これらのすべての物語母型が、神智学にある。
(もっというと、その元祖のゾロアスターまで遡る)
それらが70年代末アメリカンニューウェィブとして流行ったから、
日本も取り入れただけなんだよね。

詳しくは過去記事に書いた。
ニューエイジとスターウォーズ
http://oookaworks.seesaa.net/article/472781840.html


で、「目覚めた光の戦士達は、悪魔と戦う」まではいいんだけど、
「彼らが人類を救う」ことまでは規定されてないんだよ。
「目覚めた戦士達だけの理想郷を作る」
までで終わってるんだ。
だから新興宗教として島をつくるまででおしまいで、
全人類を救うことはしなかったのだ。

「目覚めろ。そうすれば全てを思い出す。
そして我々のところへ来い」までしか、
この物語母型は語ってない。

だから、「目覚めた人たちが、人類を導く、または共和する」
というストーリーはないんだよ。

だから、Zは、
ガンダムの続編としての、
「その後のニュータイプと人類」を、
描けなかった。
元ネタにないからだ。

もちろん、元ネタにないからといって、
続きを創作してはいけない理由にはならない。

つまり富野がやるべきは、
その続きを創作することだった。
そこに挑まず、大人達はー!って叫んで女達(幻想)に見守られて、
体当たりするしかできなかったのは、
あまりにも幼すぎるやりくちだ。


どうしたら、目覚めた人と目覚めていない人が、
より良い未来を築けるのだろうか?
賢い人がバカと暮らす良い方法は?
バカの暴走を食い止めることはできるか?
バカは賢い人をこわがるのか?

実は、Xメンも同じ物語母型をつかっている。
映画版ではマグニートーがナチスに追われた少数民族的なことになっているが、
Xメン=目覚めた人たちは、
結局人類の誤解や恐怖に対して、
「なにもできませんでした」
「学校という島をつくるので精一杯でした」
までで終わってるんだよ。
新法をつくって共存、くらいまではやったかな。
でも、
「人類がよりよく進化する」まで描けてないんだよね。

「覚醒」の続きを上手く書けた人は、
だから誰もいない。

幻魔大戦は作者の老衰でうまくいかなかった。
これについては過去にたくさん書いたので繰り返さない。

Xメンも、Zも、うまくいかない物語母型を使っている。

たぶん、それだけのことだろう。


ファーストガンダムは、
だから「続きのない物語」として完結したのだ。
宗教的だったラストは、そういうことさ。
新興宗教の物語レベルで完結したからだ。

Xメンはまだ続いているが、もはや往時のパワーはない。
覚醒した人々と、してない人々を、
難民や人種の混ざり合いとして表現したとても、
「人類の進化」だろうかね?
現実の進化がおいつくまで、
「理想の結末」を描くことは難しいのではないかと思っている。

だからどこまでいっても局地的勝利、
「ここでは(一瞬)理想郷が作れた」で、
終わると思う。


Zは、そうもなっていなかった、
大変不幸な作品であった。

ニュータイプは世界を救えない。
目覚めても救えない。
救うのは目覚めることよりも、行動することであろう。
三人称形式ならね。
posted by おおおかとしひこ at 09:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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