2025年03月23日

「壁打ち」と脚本と小説

今回の自作キーボードイベントでもラクダエンさんと会って、
何やら怪しい身体理論を話していたのだが、
「自分はどこにいるか」という話から「観客はどこにいるか」
という話に発展して、
これは面白い感覚の相違だなあ、と思ったので、
脚本論にて詳細にメモしておく。

書き手たちが普段どうやっているかは、書き手同士が話し、言語化しないと、
こういうことは他人に共有できるものにならない。

あまりこういうことを聞いた例がないため、
興味深いことになると思う。


これまでのあらすじ:

・僕は主に脚本、ラクダエンさんは主に小説を書く。
・自分の身体感覚を当然のものだとおもっていて、
 それ以外の感覚があるということを想像したことがなかった
・タイピングの打鍵法の流派が真逆なのに気づいたが、
 どうやら同じ「物語」というものを書いているくせに、
 真逆の方法論でやっているぞ、
 ということがわかった。

・この違いは「あし体」(僕)と「うで体」(彼)という、
 鴻江理論による、身体の二分類にあっているっぽい。
・また、以下で脚本は〜、小説は〜という表記があっても、
 すべての脚本、小説でこれらの両極端な違いがあることを保証しない。
  あくまで僕らの場合のみだ。
 (だが普遍的なのでは?という疑いがある)


今回の議題の主な違いは、「自分がどこにいるか」から入った。

そもそも「会話」っていっても、
僕(脚本)の会話と、彼(小説)の会話の本質が異なるのでは?
というあたりから入る。

僕の身体感覚からすると、
各キャラクターの中に入る。
その人が考えていること、やってきたこと、これからやろうとすることを
「自分のものにして」考えて、
会話を発する。
相手の戻しは、相手の「中にはいって」、それを受けた人として、演じていく。
次のセリフはまたもとの人の中に入って、返すわけだ。
つまり、会話のキャッチボールにおいて、
僕は忙しく二人の人物の中に入っては出て、を繰り返す。

つまり、この時、
Aから見たBの光景と、Bから見たAの光景、
相手の表情や背景などが見えている。
同時に見えているのではなくて、交互に見えている感じだね。
(脚本も後半になって、二人の会話に慣れてくると、
同時に見えるようになるけど)

これが、彼の場合は全然異なるそうだ。
彼は中に入るのではなくて、傍観者になるらしい。
舞台に譬えると、
役者が演劇を舞台の上でやっていて、
自分は観客席にいるらしい。
「キャラクターの横顔同士が会話しているのが見えるの?」
と訪ねても、見えていないらしい。
ビジュアルはないのだそうだ。
ただの音、ないし概念ということだ。

ふむ。彼の場合は、
会話とは「ダイアローグ」というひとつのものなのかもしれない。
僕にとって会話とは「モノローグ」と「モノローグ」の掛け合い、という感覚。
これは、作者の視点がどこにいるか、
ということだね。


で、そこで、「観客はどこにいるの?」という話になった。

彼の場合は、観客という具体的なモデルはいなくて、
観客というイデア(概念的な存在)がいて、
オイこれを見ろよ、と自分の隣の客席にいて、
肩を組んで、一緒に見ようぜ(ないし見ろよ)、ということになっているみたい。
つまり観客と作者は「同じものを肩を並べてみているもの」
ということになる。

ところが僕はそうではない。
観客はたしかに舞台の客席にいるのだが、
僕は、「観客の中にも入る」という感覚をもっている。
会話するAとBと、それを見ている観客C。
それぞれの中から見た光景、物語を見て、
総合的に判断しているようだ。

ほほう。面白いじゃないか。

だから僕は、いろいろな観客を客席に呼んで、
こういう観客ならばこのように受け止める、
こういうタイプの観客ならこういう飯能をするだろう、
などのように、その人を演じることで、
理解していくパターンを取る。
だから、複数の観客を呼ぶことも可能だ。

だから、「これは受ける」「これは受けない」という、
観客の反応がシミュレーションできるんだよね。

だが、客席から会話を見ているラクダエンさんは、
「受ける/受けない」という感覚を持たずに、
執筆をしているらしい。
つまり、「自分がもっともよいと思うものを書き、
それを開陳することが小説である」という立場らしい。
「な? 見ろよ」と横の観客にはいうものの、
そのイデアがどんな顔をするかまでを、
感覚としては持っていないというのだ。

ほほう。


そこで、アップルのデザイナーの話になる。
アップルのデザイナーは、
普段いいものやだめなデザインを見て、
「これがなぜよいのか」「これがなぜだめなのか」を、
言語化して、感覚化して、
トレーニングすることを日常的にしているらしい。
つまり批評眼、感覚としての良い/悪いだ。
それは、観客を内在化させる、 僕のやり方と同じだね、
なんて話をするが、
一方そうじゃないやり方が、
Googleの方法論なのだそうだ。
つまり、なんでもかんでもABテストをして、
受けたほうをそのまま作り続ける、
という方法論なんですって。

感覚として芸術感覚を持たずに、
受けた方が受ける、という考え方らしい。

おや。なんだか昔の映画が感覚で受ける/受けない、
という作られ方をしてきたくせに、
それが銀行などの他業界を巻き込んだ製作委員会こ方式になったあたりから、
マーケのデータが、とか、セグメント化が、
なんて言い出して来たことと関係ありそうだね。

そして、調査することがデザインである、
くらいに考えているっぽい、
という話になった。
ほほう。


そこでさらに面白くなったのが、
「映画好きはみんな糞映画を愛していたり、
これがいかに糞かを嬉々として語るが、
小説好きが、糞小説を好きといったり、
糞小説をコレクションすることはない」
という話が出てから。

ほほう。芸術的な感覚をもって、
映画を鑑賞し、その自分の感覚を持って、
よいわるいという一元的な直線に並べる映画に比べ、
小説は自分の好きなものだけを集めて、
糞は捨てるから、自分の好きなものだけに囲まれる、
ということが結果として起こると。

なるほど。アップルとGoogleのやり方くらい差がある。

だから、小説を書くときは受ける/受けないという感覚はなくて、
自分が好きか嫌いか、観客よ、お前も好きだからここに来たんだろ?
ということで書いているらしい。

僕が、代表的な観客になり、
観客の感覚をいくつか「中に入って」シミュレーションしたうえで、
受ける/受けない、ということを判断しているのとは、
まったく異なる地平が生まれていた。


さて、これが脚本と小説の本質的な差なのか、
単なる二人の作家性や方法論の違いなのかについては、
色々な議論ができると思う。

だが、いえることは、
「どうやら世の中には二つの両極端なやり方があり、
自分の感覚そのものが正しいと感じていて、
それと異なるものがあるとは露ほども思っていない」
という現象があるのでは?ということだ。

企画打ち合わせでも、
まったく異なる感覚によって、
進める順番や内容がどんどん揉めていくことがある。
これらは、内容に関する好みや都合でもめているのではなくて、
異なる両極端な感覚の者が、
「自分の感覚と違う」という違和感をもとに、
喧嘩しているだけではないか?
という大胆な推理が立った。

僕が阿呆かこいつら、と思っていた人たちは、
うで体の人たちであり、
彼らはあし体の人たちのやり方が不穏で不安で阿呆か、
と思っているかもしれない、
ということだ。


で、今日思いついたんだけど、
脚本業界にある「壁打ち」というやり方は、
おそらく小説業界にはないのではないか、
と考えられる、という話。

壁打ちはテニスの壁打ちみたいなことをやるから、
そう名付けられたのであって、
アイデアを言う側の人と、壁訳の人の二人でやるものだ。
アイデアを思いついた人がそれを口にしたら、
壁役の人は、世間の人を演じるわけ。
素直におもしろい、いいね、つまらない、くそ、などと、
好き勝手世間の人がいうであろう感覚をもって、
反応するのである。

アイデアを考えている状態のときは、時として客観性を失っている。
自分のアイデアのおもしろさに夢中になりすぎて、
観客がこれをどう思うか、まで考えられずに、
暴走することがある。
壁打ちは、客観的な視点を持つ人が壁役をやることで、
観客の反応こみの状況から外れないようにするシミュレーションだといえる。
普段は一人でやるのだが、自分一人だと不安なときに、
もう一人の俺がやるべき観客役を任せるということだね。

壁役の人はだから「自分の感覚」で壁になってはいけない。
「代表的な観客」「特殊な観客」「よくいる観客」
「レアだけどこれもありえるという観客」などの、
複数の観客を演じて、
出来たばかりのショウに対して、感想を持ってあげるのだ。

これは、ある程度技量が揃った二人でないとできない。
壁役が自分の感想を言ってしまったら意味がなくて、
観客役に徹しないといけないからね。
アイデアはまだ形として不安定であるが、
「それはこういうことだろ?」
「こういう形にしたほうが分りりやすいな」という助言もできないと、
意味がないからね。
だから、なるべく技量が揃っていないと有効な方法ではない。

企画を考えるとき、実際の執筆原稿を前にしたとき、
受ける側はつねに観客を演じながら読めるか、
ということなんだよね。


こういう習慣が、ラクダエンさんの話を聞く限り、
小説にはあまりないのでは、と思ったので書いてみた次第だ。

感想を述べることはあるかもしれないが、
フルボッコにすると人間関係が壊れるし、
ダメなのに言わないで曖昧な微笑みを返す、
なんて光景が、
文芸部を舞台にした漫画でよく見るので、
大体そんなもんじゃないかなあ、などと思っている。

壁打ちを実際にやり、批判にさらされ、
ええいこれならどうだ、と新しいアイデアをひねり出すのが、
脚本打ち合わせの本質だと僕は思うんだけど、
こればかりは技量が揃っていないとできないので、
プロデューサーやスポンサーとの脚本打ち合わせは、
こうならないことだらけなんだよなあ。


一人で書く小説、みんなにさらされる脚本、
というメディアの差もあるかもしれない。


ということで、
観客はどこにいるのか、
自分はどこにいるのか、
受ける/受けないという感覚をどこでつくるのか、
糞映画も観るべきだ、愛すべき糞映画もある、
糞小説はないし、誰も愛していない、
という「物語」という同じジャンルなのに、
全然違う要素があるのでは?
という話を、
昨日しておりました。


今話している相手は、自分と同じタイプではない可能性がある。
そんなことは分かっているのだが、
ついつい同じジャンルだと同じだと思ってしまう傾向があるよね。
いや、自分と近しいジャンルでも、
下手したら同業者も、
自分と同じ感覚ではないのかもしれないよ、
ということを書いて結論とするか。

しかし、うで体/あし体による分類法が、
ここまで威力があるものか?
単なる偶然でサンプル2だからそうなっているのか?
自作キーボード界隈で物語作者はほとんどいないので、
書く人の特性を僕は知りたいのだが。


以下から診断してみて、
妥当なのかを検証されたい。
https://www.kounoe.com/method
posted by おおおかとしひこ at 18:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
更新ありがとうございます!

私は漫画描きですが「あし体」で基本的にキャラクターの中に入りながら制作し、また読者視点でもあるのでかなり大岡監督と感覚が近いと感じました!
(余談ですが、私は活字よりも漫画や映画やアニメ好きであり、私の作品は「映画っぽい」「ドラマっぽい」と言われるので映像主体の思考が定着しているのかもですが)

また「壁打ち」も、編集者さんと漫画家の制作にとても近いと思います。

これでサンプル3になりますかね??
(漫画描きなので宛にならないかもしれませんが……笑)
制作物の形態によるものなのか、はたまた個人の差なのか、非常に興味深い議題だと思いました!!
Posted by 自称弟子のれお at 2025年03月25日 09:12
>自称弟子のれおさん

なるほど参考になります。

作るものの本質が一種類とは限らないので、
映画はあし体でないと書けない、わけではないと思われますが、
傾向としてはありそうです。

あと複数人でつくるものは、
「やり方や順序でもめる」ことが頻繁にあるため、
その齟齬を探る新しい手がかりとして使えるのでは、
と思いました。
向いてる指導、間違った指導の判断もできるかも。
Posted by おおおかとしひこ at 2025年03月25日 09:21
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